「ほっ」と。キャンペーン

両忘

iaf shopで作品展示中。

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ご無沙汰しております。
約一年ぶりのブログ更新となってしまいました。

2月19日(木)より、福岡での展示でお世話になっている「iaf shop」で、現在作品を展示させていただいております。会期は次の展示が入るまでということではっきりはわからないのですが、おおむね今月中旬までとのことです。他の作家は生島国宜さん、江上計太さん、中尾葉子さん。ぼくは制作進行中のスクラップブックから作品を選ばせていただきました。在廊予定はないのですが、自分のやつはともかく、他の作家の方々がすばらしいの間違いないなので、ご高覧いただければうれしいです。

開廊時間は通常のiafの営業時間に準じます。詳しくは....
iafのホームページ
佐藤さんのブログ「うるさいギャラリー」でご確認ください。

どうぞ、よろしくおねがいたします。

あとこのブログ、すっかり更新がなくなってしまったのですが、引っ越しをするつもりでいるんだけどいろいろ煮詰まるところもあり、放置したままになってます。日記や作品の更新などは、facebookのほうでちまちまやっておりますので、よければそちらのほうもご覧下さい。友人申請承っております。
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# by ksksk312 | 2015-03-01 22:46 | お知らせ、個展など

堤清二さん亡くなる。

堤清二さんが亡くなった。

セゾン美術館、リブロ、WAVE、アールヴィヴァン、シネヴィヴァン、創成期の無印良品....。若い頃から「セゾン文化」にはユーザーとしてしばしばアクセスし、計り知れない恩恵を受けた。というか、ぼくらの世代にとってセゾン文化は(恥ずかしながら)青春だった。ヨーゼフ・ボイス、ロシア・アヴァンギャルド、アンゼムル・キーファー、武満徹と「今日の音楽」、ゴダール、糸井重里、日比野克彦....。すべてセゾンが供給し、ぼくらは享受した。

1975年、西武美術館が開館したとき、堤さんは図録に「時代精神の根據地(根拠地)」という文章を書いている。以下、少し引用する。

「1975年という年に東京に作られるのは、作品収納の施設としての美術館ではなく、植民地の収奪によって蓄積された冨を、作品におきかえて展示する場所でもないはずです。....言いかえれば、美術館それ自体が、たとえば砂丘を覆う砂や、極地の荒野の上に拡がる雲海のように、たえまなく変化し、形を変え、吹き抜けた強い風の紋を残し、たなびき、足跡を打ち消してゆく新しい歩行者によって、再び新しい足跡が印されるような場所であって欲しいと考えています。....だからこの美術館の運営は、いわゆる美術愛好家の手によってでなく、時代の中に生きる感性の所有者、いってみればその意味での人間愛好家の手によって動かされることになると思われます」(永江朗『セゾン文化は何を夢見た』から孫引き)

いまのわれわれが読むと、きわめて真っ当な、ごく当たり前と思えるような提言が述べられている。時代とリンクすること、市民目線であること、フレキシブルであること。しかし、当時はこういう美術館は無かった。いまでは当たり前のことの「始まり」、それが西武美術館なのだ。各地の素晴らしい現代美術館、成熟したアートフェス、西武美術館こそが源流だったとぼくは思う。

セゾングループの文化事業を、ワイマール共和国に生まれたバウハウスに重ねる見方があるそうだ。たしかに言い得て妙....。バウハウスは短命に終わったが、人材を作り、その後大きな文化的富をもたらした。セゾン文化もまったく同じだ。

前述した堤さんの文章に出てくる「根據地」とは、中国革命のときの用語で、革命成就のため農村に設置した軍事拠点のことをいうらしい。1975年の根拠地は「池袋」だった。しかしいまは、セゾンで育った、あるいは関わった個々の人材が「根拠地」となっている。場所から人へ、セゾン文化は、軍事用語でいうところの「散開」をしていまだ戦っているように思えてならない。そして、若い頃に革命を信じた堤さんの時代精神も、新しい文化のレジームの中に垣間見えるような気がする。

堤さん、安らかにお眠りください。

いまでもわくわくしています。
ありがとうございました。
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# by ksksk312 | 2013-12-01 22:29 | 読書美術音楽、etc

重力

橋より
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# by ksksk312 | 2013-03-07 00:37

ON HARDCOVER

ODORUODORUODOU
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# by ksksk312 | 2013-02-27 23:44

ON HARDCOVER

泳ぐ
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# by ksksk312 | 2013-02-27 00:13

写真

まばたきしなさるな (萩原朔太郎)
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# by ksksk312 | 2013-02-14 23:15

写真

南へ
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# by ksksk312 | 2013-02-14 00:39

インモラルは殺せない。

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森美術館で開かれている会田誠展。展示中の(主に18禁の)作品について、児童ポルノ、性的暴力根絶などを訴える市民団体から抗議が寄せられているようだ。作品があまりにも反社会的、インモラルである、公共性の高い美術館での展示が許せない、作品を撤去せよ、そんな要求を突きつけている。

いつだったかテレビで、チンパンジーの精子と人間の精子を比較した映像を見たことがある。チンパンジーの精子はまず数が圧倒的で、エネルギッシュに動き回っている。それと比べると、人間の精子は(愕然としたのだが…)チンパンジーよりもずいぶん少なく、動きもかなり弱々しかった。なぜか?チンパンジーは乱婚社会なのだそうだ。メスは複数のオスと繁殖をするので、異なるオスの精子たちがひとつの卵子を目指して胎内で苛烈な競争をする。その営みが、何万年も繰り返されてきた。一方人間は、相互扶助、法と道徳に守られて家族を作り、繁殖をする。強い精子も弱い精子も生き残るから、チンパンジーとは大きな差が出てしまう。精子の強弱が、個体の価値を決めるはずはないが、社会の枠組、法と道徳のもとで繁殖することで、人間が失っていくものもある。

インモラルには、法や道徳に縛られ文化や社会が弱体化したとき、それを蕩尽し、あるいはばらばらにして攪拌し、動物的(根源的)な力を再生させる力があると思っている。もちろん、社会が無政府状態になって、性的虐待や暴力が容認されてよいというのではない。要は価値と文化の問題だ。道徳という名の客観性に一撃を加えて、弱体化した想像力と主観を取り戻すこと。

一部の会田作品はインモラルであり、毒である。たしかに誤解を招きかねない表現はあるだろう。児童ポルノや性的暴力を思わせるものを描いているという見方も、完全には否定しない。しかし、グロテスクでインモラルな表現から伝わるのは、生命のカオスというべき「力」ではないのか。ジューサーにかけられ、暴力的に粉砕される少女たちの絵はまさにそれで、形を失ったエロスが蕩尽され、カオスに戻ることを象徴しているように思える。蕩尽されたエロスは再生し、おそらくは循環していく。会田作品には、エロスの再生と循環のための、「瞬発力」が描かれていないだろうか。チンパンジーの精子のような動物的エネルギーを、われわれの価値と文化に取り戻すこと。ニーチェがいうところの「力の意志」。想像力としてのインモラルを、殺すことは出来ない。

今回の抗議は、現実からの「夜討ち」のようなものだ。異議申し立てをした団体の抗議文を読むと、会田さんや主催者に疑問をぶつけて、丁寧に議論するという姿勢はまったく感じられない。まあ、抗議なんだから、しょうがないか。「森美術館問題」なんていうスローガンも出来上がっているし。会田さんと主催者は、抗議に対して、粘り強く向き合うことになると思う。森美術館が作家に断りなく作品を撤去することはないだろう。しかし会田さんは、犬ついて、ジューサーについて、スクール水着について、ひとつひとつ説明していくことになるのだろうか。

芸術とは美であり善であり、真でなければならない…と固く信じて疑わないモラリストからみれば、会田作品は許し難いものとして目に映る。聞く耳を持たない相手に、会田さんが言葉でひとつづつ反論し、関心を寄せる者たちも発言を寄せるのだろう。しかし議論は平行線をたどり、「それは芸術か?似て非なるものか?」というありがちの二元論へ突き進むことになる。想像力のインモラルと現実のインモラルは、どのような回路でつながっているのか?知りたいのはそこなのに残念だ。突破口は「作品」しかない。
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# by ksksk312 | 2013-02-05 11:46 | 読書美術音楽、etc

ふりかえる

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# by ksksk312 | 2013-02-02 23:32

写真

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# by ksksk312 | 2013-01-28 23:40