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両忘

日本についての二、三の言葉。

『既にそこにあるもの』大竹伸朗

様々な街を訪れいつも思うのは、もはや特定の地域が自動的に「日本」と結びつくことなど無いといった感想だ。二十二の時、外国から帰ってきてからは、どこへ行っても東京式の街並みに右へならえの強引な力にうんざりしきっていて、「日本」をテーマに絵を依頼された時も正直な話非常に困ってしまった。「日本」など大嘘をつかない限り、少なくとも自分にとってのテーマになどなるはずがないと思い込んでいたからだ。

しかし日本をまわり始めて、絶句する光景があまりに多いことが気がついた。「日本」のことなどまったく無視した、歯止めの効かない爆走の果てに、過去の絶景はいつの間にか絶句景に変貌していたのだ。そこにもはや過去の尺度は無力であり、「日本」というものをどうしても見ようとするなら絶望のパワーダウンしかない。僕は今の日本の絶句風景を目の当たりにすると、思いとは裏腹にどうしてか反射的に心が笑ってしまい、その瞬間に絵心の回路が自動的に作動するのを感じる。


「途切れない記憶」中沢新一(『relax』2005.10)

いまから数千年前の東京の地形をあらわす「縄文地図」を手に、住みなれたこの首都を散歩する『アースダイバー』の仕事をしていて驚いた事は、めまぐるしく変貌をとげているように見える東京が、その地形のいたるところに、気の遠くなるほどの古い時代の記憶を、いまもそっくり保存しているという事実だった。....東京は巨大な武蔵野丘陵と多摩丘陵が、東京湾にむかって力づよく突き出してくる、その「岬」の部分に発達した都市だ。気候が温暖になって、氷河が解け出した縄文時代の中頃には、多摩丘陵がむしろ文化の中心地で、海に突き出た「岬」は宗教的に重要な意味を持つ場所だった。そのために、上野や芝や品川のような文字通りの「岬」ばかりではなく、フィヨルド状に入り込んだ内陸の小半島である青山などは、生と死が接触をおこなう整地だった。

....いまだって「ニッポンの風景」は、ちっとも均質になってなんかいないのだ。風景の奥に広がるトポロジーの中では、エネルギーの集中している場所や、それがのんびりとのびきっている場所や、急流のように走っている場所や、沼地を作っている場所などが、つぎつぎに連なって、大地の特異点をつくりだしている。


『三四郎』夏目漱石

「しかしこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので「亡びるね」といった。熊本でこんなことを口にす出せば、すぐになぐられる。

「東京より熊本は広い。日本より....」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。「日本より頭の中の方が広いでしょう」といった。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。

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最近の読書から。気になる言葉です。

日本ということばを、九州に、または佐世保に(または「自分」に)置き換えて、頭の中を転がしてみます。新しい絵心の回路は、開くでしょうか。
by ksksk312 | 2009-01-23 01:16 | 断片集