両忘

民主主義だからトラブルは起こる

すでにご存知のかたも多いと思うけれど、残念なニュースがはいってきた。

渋谷の西武百貨店、「美術画廊」で開催されていた展覧会の突然の中止である。「SHIBU Culture〜デパートdeサブカル」というサブカル系の若い作家たちの作品をあつめた展覧会で、「百貨店にふさわしくない作品がある」という来場者からの苦情が中止の理由らしい。下半身を露出した少女のフィギュアとか、そういう作品があったということだけど、展示された作品は画廊スタッフの見識でセレクトされ、チェックを受けて展示されたはずで、それにもかかわらず来場者の「苦情」を受け入れて展覧会が中止になるとは信じ難い。強い憤りを感じる以前に、情けなくなってくる。

どうしてまた、来場者の「苦情」程度で展覧会が中止に追い込まれるのか。

百貨店の美術画廊という場をかんがえれば、ひょっとするとそういうことも起こりえるかも知れない、とは思う。百貨店は、ホテルと同じで顧客をとても大切にする。顧客の発言力は絶大で、もし画廊の顧客が「あの作品は何だ。お前のところではもう買い物はしない」などと言われれば、大きな圧力になるだろう。まあ、推察に過ぎないのだけれど、一般の来場者の苦情で展覧会が中止になるとは、ちょっと考えにくい。百貨店の力学だといわれればそれまでである。会期をわずか4日残しての中止なので、企画したスタッフが頑張ってぎりぎり引っぱったのかもしれないが、作家たちが声を上げにくい微妙な時期での中止ともいえる。ただ、問題のあった作品だけを撤去する選択をしなかったのは悪くなかった(一人だけスポイルされた者の悔しさは経験したものでないとわからない)。しかしながら、作家に意見を聴くことなく一方的に展覧会が中止になるという、悪い前例がまた作られてしまったのである。残念としかいいようが無い。

表現の拡張は今後も進み、発表の場も美術館やアートスペースから街中に広がることをかんがえれば、トラブルはこれからも起こる。記憶に新しいところでも、広島上空での「ピカッ」(Chim↑Pom)、神戸ファッション美術館での「バッタもん」(岡本光博)、沖縄の県立美術館での「天皇のコラージュ」(大浦信行)など、頻繁に起こっている。それは美術の世の中でのあり方をかんがえる契機になることもあるし、全面的に否定できるものではないと思っている。ただ、トラブル回避のために、作家も企画者もある種の根回しをかんがえるならば、展覧会はつまらなくなり、鑑賞者を裏切るものとなるだろう。

表現のやり方に対してさまざまな見解はあると思うが、われわれは日本という国で、まずは好きなものを自由に制作出来て、発表出来る環境にある。しかし、当然のことながら「自由」は作家だけに保証されているものではない。しばしば「効率の悪い」現実とぶつかることがある。芸術的な議論以前に、しょうもない理由にただ脱力....という場合もあろうかと思う。また仮に議論する値する問題が起きたとしても、(本音をいえば)作家はあまり作品を言葉で説明したくはないものだ。トラブルが長期化すれば、ただのイデオロギー対立のようになって、作品も鑑賞者も置き去りになってしまう。それもどうかなあと思う。

しかし....。あまりに理不尽でもはや脱力するしかないという通告を受けても、あるいはむずかしい問題を孕んでいて、イデオロギー対立に陥る危険があっても、作家にはトラブルと向き合い、解決する努力をしてほしいと思う。なぜなら、悪い前例ばかりふえては困るからだ。作家が最後まで展示をつらぬくとか、見識のない美術スタッフ(作家の場合もあろう)にきちんと頭を下げさせて対応させるとか、そういうポジティヴな前例がふえていかないといけない。悪い前例ばかりが積み重ねられて、ボーダーぎりぎりの表現をこころみている作家や企画者が萎縮してしまう、そういう状況が蔓延しては困ると思うが、どうだろう。

話はすこしそれるけれど、先週金曜日の朝日新聞の「記者有論」というコラムに、台湾での蔡国強のパフォーマンスのことが載っていて、興味深く読んだ。蔡さんは台北の新年のカウントダウンのイベントを依頼され、超高層ビル「台北101」を螺旋状に(竜が天に昇るように)花火が炸裂していく作品を用意していた。しかし、さまざまなトラブル(予定していた11万発の花火が、安全確保など行政手続きの遅れで準備出来なかった)からイメージ通りの作品ができず、市民から「竜がミミズになった」と揶揄されたのだという。作家の言い分はこうだ。「台湾は民主国家だからいろいろと問題が出てくる」、「北京五輪では、江西省からずっと赤信号はなく、(花火を)パトカーが先導してくれた」。北京五輪の「鳥の巣」で著名な建築家ジャック・ヘルツォークも似たようなことを言っているらしい。「スイスの民主政治は建築の邪魔をする。(鳥の巣は)中国だから実現できた」と....。蔡国強作品の失敗を招いた行政効率の悪さについては、台北市は市民の安全確保が第一と反論する。しかし(当局に文句を言わせない)非民主的な国家でインフラや都市計画が順調に進み、発展しているという現実。中国に民主化を呼びかけながらも、果たしてそれだけでよいのか、台湾は不安を感じている、と記事は結ぶ。

一見すると、芸術活動にとって、(われわれの国ような)民主主義は居心地が悪いようにみえる。実際、日本をはなれて北京で大プロジェクトを手がける若手建築家がいるし、絵を売るなら上海、と野心をもつ作家はごまんといるだろう。しかし、いくら居心地がいいからといっても、蔡国強やジャック・ヘルツォークの言葉には違和感を持ってしまう。北京五輪の花火にみとれてしまった自分が言うのも変なんだけど、あれは体制から見ればプロパガンダでしかない。「鳥の巣」もすばらしい建築物だが、デザインの斬新さゆえ、やはりプロパガンダである。体制と渡りあってやりたいことをやる、それもしたたかな芸術家の生き方かも知れない。しかし、たとえばクリストなら中国で作品は作らないだろう、と思う。「効率の悪さ」と向き合って作品を作ることは、(若い作家には理解出来ないかもしれないが)立派な見識である。クリストのプロジェクトが常にそうであるように、作品はいったい誰のものなのか、何を伝えたいのか、どのようにして届ければよいのか、真剣にかんがえる機会になるからである。

話が大きくなってしまったが、とにかくこの国ではどうしようもないトラブルが起こってきたし、これからも起こる。でも、(繰り返しになるけれど)脱力せずすこしでもポジティヴな前例が導き出せるよう、作家は努力すべきだと思う。クリエイティヴで、ポジティヴな発表のかたちを創造するのだ。ひとつひとつのケースでかんがえる機会になればと願う。
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by ksksk312 | 2011-02-08 01:00 | 読書美術音楽、etc