両忘

展示をめぐる覚書

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昨年はまったく展示の機会はなかった。ブログの更新も止めてしまった。作家の看板を下ろしてもおそらく誰も気づかないし、誰も困らない(おそらく自分自身も)。自虐的な言い方をすれば、アート独居老人。それでも何かしら描いていたのは、創作への快感原則があったからだと思う。しかし、日々生まれている作品にどんな未来があるのか、自分が死んだら処分されるだけか、悲観的なことばかり考える。

刺激しあえる同士も無く、身を寄せるコミュニティも無く、世の中にうまく露出できず、結果として反応もフィードバックもない。そうなるとこういう苦しみを抱えてしまうわけだが、そんな作家は自分だけではないということはわかっている。これには特効薬は無い。作家を続けたければ、誰も声をかけなくても露出していくしかない。迷ったら、やらないよりも「やること」を選ぶ。ご褒美は出ないかもしれないが、発見はかならずある。運が良ければ出会いもある。

今回、知人からの情報提供で、国立長崎医療センターのギャラリースペースを利用させていただくことができた。広いだけでなく壁面も設備もしっかりしていて、平面作品の展示スペースとしては申し分ない。というか、かなりの穴場です。病院のパブリックスペースなので、現代美術やモダンアートがシビアに展示されてきたところではないけれど、今までこれだけ広いスペースで展示をしたことがなかったので、経験を積むにはうってつけだと思った。暗中模索での状態でも(繰り返しになるけれども)展示をすれば何か発見がある。制作に行き詰まって何度も投げ出しそうになったが、やり遂げてよかったと思う。

作品は13点。米袋(大きいサイズで描くとき便利な支持体。耐水性があって強い。米ぬかの匂いをとるのが大変だけど)に描いたものを6点。そのうち、今回の展示のために制作したものが4点で、2点は過去に展示したものになる。残りは、快感原則にしたがって日常的に制作しているコラージュやドローイングである。実は、紹介してくださった知人から「病院なので、エログロ、死や血を連想させる作品はだめ」と表現内容についての注文がついていた。表現に規制がかかってよい気持ちのする作家はいないけれど、パブリックスペースなのでしょうがないとは思う。いちおう作品の傾向については画像を提出して説明。病院が作品にNGを出したら撤去も良し。アウエーの戦いと思って受け入れることにした。

結果的には、今回の作品はエログロに相当するものはほとんどないです。自主規制したわけではない。今回の「米袋」にはエログロ系の作品を描いたことが無くて、流れの中で「出て来なかった」ということなんだと思う。意識的ではなかったけれど、自然とポップでグラフィティっぽい(かな?)作品になったのは、病院というロケーションが頭にあったからか…。(蛇足になるが、昨年から力を入れているB4紙のドローイング、そしてコラージュブック。展示する方向で検討したが、迷ったあげく見送ることにした)

展示作業については、非常にスムーズに進んだ。

作品の位置決めに1時間、展示作業に2時間くらい。もともとその程度の作業時間しかないのはわかっていたので、作品を絞り込んできたのがまずよかった。それと、今回のスペースのように縦に細長い空間での個展は初めてであったが、とても展示がやりやすくて、おどろいた。
たとえば、(広さにもよるが、福岡のIAFのように)同じ平面で四方を囲む正方形の空間だったら、壁面と壁面がおなじ力で引っ張りあい、ニュートラルで閉じた空間になるようだ。そこに作品を入れるのは本質的に異物を入れることに他ならず、その上でバランスよく展示をするのはとても難しい。しかし縦長の場合だと、壁面ひとつひとつの独立性が強く、他の壁面とのバランスに囚われる必要はあまりないように思った。壁面ひとつひとつに完結した世界があり、作品の納まりがよくなる。

IAFだと、縦横が3メートル、高さが2.5メートルの空間で、閉じた立方体の中に入ったような感覚があった。展示は、2次元の壁面に作品を貼り付けるというより、3次元である立方体の空間に作品を配置するという作業になる。4つの平面があるのではなく、1つの空間しかないということ。平面は空間の構成要素に過ぎないので、バランスよく展示できるまで試行錯誤の連続、ほんとにエネルギーを使う。いまから思うととてもむずかしい作業で、実はIAFは展示難易度の高い空間だったのだと、今回はじめて気がついた。広い空間で新たな経験を積むつもりだったが、むしろIAFでの修練が生きていると認識させていただいた次第だ。感謝である。

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搬入する日の朝。気づいたこと。

深夜まで(煮詰まったり、火事場の馬鹿力的にはかどったり)制作をして、その後タイトルカードや備品をチェック。梱包作業をして少し眠ったら朝である。荷物を抱えてバス停のベンチにすわっていると、目の前に大きなクスノキが見えた。卒業した中学校の裏庭に、ぼくが生まれる前から(ひょっとすると戦前の陸軍の駐屯地だった時代から)立っている木である。疲れていたせいもあるだろうが、梢が風に揺れてさわさわと鳴る音、枝葉から洩れる朝日の煌めき、とても気持ちよかった。クスノキは大きい。そこに根を張り、自意識はなく、ただひたすら自分のいのちを生きている。人間は動物だから、そこから一歩も動けない生物になりたいと願うのはなかなか難しい。しかし、動けないから余計なものを見たり聞いたりすることはない(というか、そういう機能もない)。自然と一体であり、宇宙とつながり、じゅうぶんに生きて役割を果たしているのに、クスノキは何も知らない。無為自然にして過不足がない。

まったく穢れがない、思った。

昨晩までの作品作りに没頭した自分、この手に抱きかかえている作品。すべて塵垢に過ぎないのではないかと心から思った。これはニヒリズムだろうか。ニヒリズムかも知れないが、不快ではなかった。人間は自分の「自己」を生きていかなければならない。しかし、自己は自分にも他人にもすべてみえるものではない。だから足りないことだらけで、葛藤があり、気分の高まりもあり、作品も生まれるのだろう。それは精神と呼ばれ、立派なものだと思われているが、目の前のクスノキには勝てないなあと、思う。

「両忘」という禅の本で知った言葉が浮かんだ。欲や錯誤でうつろいやすい自己が判断したことなど、良いも悪いも無い、どっちも忘れて良い、という意味らしい。他人のことはわからないが、作品に取り組むときは、それが良いか悪いか、思いつくかぎりのことを考えている。判断はすべて直感にゆだねているつもりだが、実際はそうではない。いろいろと引きずられる。
自分の作品をあのクスノキにたとえると、クリスマスツリーのようにさまざまなものをぶら下げていると思った。まだまだネイキッドには成りきれてない。こびりついた塵垢、欲や錯誤、フィクション、そういうものが作品に反映されるのは悪いことではないが、生煮えでは駄目なのだ。あのクスノキは、クスノキ以外のなにものでもない。作品もそうあるべきなのだろう。

それでも、今回の作品にはほぼ満足しているし、展示も合格点。
展示をして、迷いのあとや消極性がみえたところはあるけれど、人前に出した以上、忘れないといけない。
クスノキのことを心に留め置きながら、次のことを考えています。
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by ksksk312 | 2012-10-21 01:12 | お知らせ、個展など