両忘

カルロ・マリア・ジュリーニ頌

月曜日、佐世保に帰る前。
自分へのご褒美というわけではないけれど、CDを一枚買うことにした。

欲しかったのはベートーヴェンのチェロソナタ。 しかし意中の演奏家のディスクがなかったので予定変更、ひさびさにカルロ・マリア・ジュリーニのディスクを買う。 シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレート」。オケはシカゴ交響楽団である。

ジュリーニは、70年代半ばに、シカゴ響とマーラーやブルックナーなど、大作曲家の第9交響曲ばかりをレコーディングしていた時期がある。 どれもが大変な名盤で、クラシックの愛好家なら、どれか一枚は持っているのではないだろうか。

カルロ・マリア・ジュリーニは、本物のカンタービレを聴かせてくれる、20世紀最後の指揮者だった。 ということは21世紀の現在、もはや本物のカンタービレはナマでは聴けない、ということになる。

とにかく、ジュリーニはオーケストラを美しく歌わせる。弦も、木管も金管も、ティンパニだって歌わせてみせる。 しかもそれぞれの歌がばらばらにならず、すべての楽器がみごとに溶けあって、芳醇なワインのようなサウンドになるのがすごい。 たとえばそれは、ドヴォルザークの新世界交響曲のような、有名すぎて通俗といってもいいような曲を聴くとよくわかる。 中学校の音楽の時間、だれもが聴かされた第2楽章。ほとんど歌謡曲なのに....絶品なのである。 ジュリーニが指揮をすれば、日本国国歌だって、プッチーニのアリアみたいになるのではないか。

それはこのシューベルトでも徹底している。
いやはや...泣きたいほど美しいのだ。

「ザ・グレート」は、晩年に集中的に書かれたピアノソナタと同様、楽想の反復が多く、演奏時間が長い。 ゆえにほとんどの指揮者はテンポを揺らし、激しいアクセントをつけ、ダイナミックに曲を展開させる道を選ぶ(そうしないと退屈で持たない)。 しかしジュリーニは、あまりテンポを揺らさず、正確な歩みの中にじっくりと楽想を歌い上げるという演奏をしている。 男性的な曲なので激しいところは徹底して激しいが、どこを切っても、ジュリーニ流の高貴なカンタービレにあふれている。

とくにおどろかされるのが、第一楽章の第一主題。ホルンの序奏で始まり、弦、木管金管とメロディが歌いつがれた後、 音楽がピークに達した直後の「とぉ〜て、とぉ〜て、とぉ〜て、とぉ〜ててぇ」というあの部分である。 ほとんどの指揮者は、ここではテンポをどんどん上げ音楽をさらなるピークへ運ぼうとするのだが、ジュリーニはオケの力をふっと抜いて、 優雅なレガートで切り抜けていく。こんな不思議な演奏は聴いたことがない。

CDの解説(萩原秋彦氏)を読んで初めて知ったのだが、この部分にはフレージングやアーティキュレーションの指示がないのだという。 つまり、派手に駆け抜けようがレガートでさらりと歩こうが指揮者の自由というわけ。 ジュリーニはスコアの指示を無視して演奏していたわけではない。いままでの指揮者が、慣例にしたがって演奏してきただけなのだ。

一見するとそのアプローチは、あたかもジェット機が離陸の真っ最中にエンジンのスロットルを緩めるような、無謀な行為のようにみえる。 成層圏に向かって一気に上昇していくべきなのに、鳥のように水面すれすれに飛行しようとしているのだ。 音楽は失速の危機に瀕するが、力を抜くことによって、パワフルなサウンドの陰に隠れていたシューベルトの「歌心」があとからあとからあふれ出る。

作曲家の意図から逸脱せずに、これだけ個性的な音楽を作り、しかもより作曲家の本質に迫るような演奏。 これを芸術といわずして何といおう。素晴らしいディスクに、いますっかりハマっている。

カルロ・マリア・ジュリーニ。
音楽の神(あるいは業界)に愛された名指揮者は数多いるけれど、オケの楽団員に心から愛された名指揮者はけっして多くない。 彼は数少ない例外だった。人間(楽団員)に愛された指揮者だけが、オーケストラを歌わせることが出来る。

こういう音楽家と、音楽家の生涯が、世界にはまだまだ足りない。

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by ksksk312 | 2007-02-11 01:32 | 読書美術音楽、etc