両忘

ダンス雑感。

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NHKの芸術劇場が4月から金曜日に移動しています。
マツザカの特番を見ているとき、なにげにチャンネルを変えて気づく。
アントニオ・ガデス舞踊団の『カルメン』と、パリ・オペラ座バレエ『若者と死』の二本立て。予想外に面白くて...テレビとはいえ、バレエを最後まで見たのは初めてかも知れない。ちょっと古いネタだけど、印象をまとめてみた。

『カルメン』。ヨーロッパでは忠臣蔵みたいなものなので、いろんな舞台、映画があるにちがいないが、とりあえずゴダールの映画とビゼーのオペラは大好きである。『カルメンという名の女』は映画館で4回見た。オペラは生で観劇したことはないが、2種類のDVDを持っている。

アントニオ・ガデスの『カルメン』というと、まず思い浮かぶのは80年代にヒットしたカルロス・サウラの映画。しかしながら、スペイン映画はビクトル・エリセしか認めないという偏見が個人的にありまして、未見。ぜんぜん縁がないままテレビで見るまで20年。ガデスもすでに亡くなっていたみたいで、残念ではある。

見た感想。とにかく、すべてが洗練されていた。
フラメンコの舞台なのだが、クラシックバレエやオペラのエッセンスがたっぷりと盛り込まれていて、非常に芸術性が高い。ソリストの踊りもすばらしいが、
とくに群衆として踊る大勢のダンサーたちが素晴らしい。情熱的なギターのリフに正確にシンクロする、パワフルなステップ。これはもう、人間を楽器にしたオーケストラとしかいいようがない。まったく、オーケストラだ。

おどろくのは、洗練されているのに、フラメンコの猥雑さや体臭がまったく消えていないこと。というか、洗練されているがゆえに、不純物が消え、欲望のエキスのようなものが蒸留され濃縮されている。立派な媚薬である。すごいと思う。ハイ・カルチャーからサブ・カルチャーへ下りるにつれて、表現は猥雑になり刺激的になるものだが、ひょっとするとダンスに関しては逆なのかも知れない、と思う。

もうひとつのパリ・オペラ座バレエの『若者と死』は、男女ふたりのソリストのみで演じられる一幕物の小品(台本ジャン・コクトー、振付ローラン・プティ)で、放送時間の穴埋めにオンエアされたような感じ。けれど、内容は濃い。

不実な女を愛して悩む青年と、青年の心をを知りつつ弄ぶ女。哀れな青年が追いつめられ縊死するまでのドラマが、台詞無しのパントマイムで演じられていく。
まずは、衣装の色彩に目を奪われた。輝くような黄色のワンピースを着た女と、青いジーンズをはいた半裸の青年、そのコントラスト。ジャンプと回転を繰りかえすうちに、ふたりがまるで月(黄色)と地球(青)を演じているように思えてくる。きまぐれな月(女)は地球(青年)の軌道を回ろうとせず、追いかける地球は彼本来の軌道を見失っていく。そして破滅の淵へ...。

音楽は、バッハのパッサカリア(オーケストラ編曲版)が使われている。これはコクトーの台本に元からあるのか、それともプティのアイデアなのか...。パッサカリアは、16歳のとき初めて買ったクラシックのレコードに収録されていた曲だけど、当時はぜんぜん理解できなくて、ただただ圧倒された記憶がある。けれど、聞くべき人が聞けばこういうドラマが生まれるんだな。才能というものはすごい。

フラメンコとクラシックバレエ。

フラメンコは、ステップの芸術だ。重力に逆らうことなく、ひたすら床を踏みしめ、打ち続ける。人間と大地のコラボレーションといってもいいかも知れない。地面の下に宿る生命をたたき起こし、芽吹かせるかのようなエネルギッシュなステップ。その起源についてはなにも知らないが、キリスト教以前の土着的な地母信仰を連想させなくもない。(日本公演は2月下旬から3月にかけて行なわれたようなので、啓蟄の季節にふさわしい舞台だったのではないか)

いっぽうのクラシックバレエには、床をしっかり踏みしめるという動作がない。ダンサーの動きはひたすら軽やかで、体格に見合った重さというものを感じさせない。まるで、人の姿をした「空気」が踊っているようにもみえ、床や重力の存在を滅却したがっているようですらある。

クラシックバレエの目指すところは、地面の下の生命力ではない。ダンサーのジャンプや回転が目指すのは常に上の世界であり、もっと観念的な世界、近代的な美を追究しているように思える。土着であるところの床や重力は抗うべきものであり、できればないことにしたい「現実」なのだろう。床がないと踊れないのに、うち消したいなんてとってもエディプス的。おもしろいぞ。今度は生で舞台を見てみたいな。
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by ksksk312 | 2007-06-05 17:17 | 読書美術音楽、etc