人気ブログランキング | 話題のタグを見る

両忘

11時2分

11時2分_c0091055_2131375.jpg


8月9日の11時2分には、積極的に黙祷するようにしている。
一昨日はバイトがお昼からだったので、自分の部屋の窓から海に向かって(長崎の方向)、目を閉じて頭を下げた。(6日の8時15分は、ときどき忘れます....反省)

黙祷をするたびにいつも感じるのは、1分間という時間の長さと密度だ。時計の秒針がひとまわりする時間に過ぎないのだが、とてつもなく引き延ばされ、いつまでたっても終わらないように思えてしまう。その感覚も、自分が生きているからこそ....。死には、時間は無い(たぶん)。黙祷とは、時間を体感することによって、自分の中に命を発見する行為といえるのではないか。

もうひとつ思うのは、黙祷するときの心ってひとつになっているのかな、ということ。敵に総攻撃を仕掛ける兵士の心は、ひとつになっているかも知れない。西坂の丘で殉教した信者たちの心もひとつだっただろう。死に向きあう時の心は、いつもひとつになる。

黙祷はどうだろうか。
ひとつの祈りを希求しつつも、心の声やイメージはみんな違う。体感する時間も微妙に違うだろう。ひとつである必要はない。空を見上げる場所はそれぞれでいいのだ。それが命。




++
祈りの音楽」をつくろうとした時に、心の状態を知らなければ「祈りの音楽」なんて書けない。じゃあ、本当に祈らなきゃって。祈りの実験。自分を祈っている状態にして、そこからどういう音楽が発せられてくるのかというのをよーく耳を澄まして聴く。でも、ひょっとしたら何も聴こえてこないかもしれない。というのは、祈る人はたくさんいるけれど、祈ったことによって音楽が出てくるわけじゃない。僕は音楽家だから、祈った状態の音がどういうものかということを自分を使って実験し、体験するのが職業でしょ。これは自分が今まで体験したことのない、祈りだなというところまで、いったとして、そこでどういう音が聴きたいか、出したいか。よく耳をすます。でも、それが自分が思っている音楽に満たない時もある。(坂本龍一『skmt』59頁)
by ksksk312 | 2007-08-11 21:33 | 断片集