両忘

新しい天使。

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さいきん、パウル・クレーが気になっている。

クレーの芸術には、自分で自分の絵を描こうとする強い力を感じる。同時代のシュルレアリストや抽象画家(モンドリアンやカンディンスキー)が、制作のよりどころを精神分析や神秘主義に求めていたのとはちがい、自分でアルファベットを作り、文法を練り、詩を書いたかのような自律性がある。多作で、画布だけではなく、いろんな支持体に作品を描いた。サイズが小さいところにも親近感を感じる。

クレーの絵を見るとまず、理解できない外国語の"響き"を聴くような、そんなもどかしさをおぼえる。アルファベットも文法もあるはずなのにわからない。しかし、そこには意味の気配があり、自分の舌では発声できない未知の世界の響きがある。じっと見つめていると、絵はやがて見るもの自身の鏡となり、見るものから芸術的な創造や言葉をひきだしてくれる。

図書館で借りた『クレーの贈り物』(平凡社)という本。
クレーの絵と、そこからインスパイアされ生み出されたいろいろな言葉が紹介されている小さな画集だが、とりわけドイツの思想家で、ナチスに追われて悲劇的な死を遂げたヴァルター・ベンヤミンの言葉が心に残った。彼が生涯愛蔵していた「新しい天使」という絵についての断章である。


「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破裂されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にからまるばかりか、その風のいきおいがはげしので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらは進歩と呼ぶものは、この強風なのだ。

ヴァルター・ベンヤミン「新しい天使」


「風のいきおいがはげしので、かれはもう翼を閉じることができない」、彼のいう歴史の天使は、戦争の世紀と呼ばれた20世紀そのものであり、ベンヤミン自身の運命をも暗示している。さらにいうと、9.11テロで幕が開け、環境のカタストローフがはじまりつつある21世紀の未来も連想させるし、(飛躍した読み方だが)"新しい天使"はゴッホや宮澤賢治など、自ら生みだした強風によって未来へと吹き飛ばされていった芸術家たちの姿であるようにも感じる。なんて深い言葉なんだ、と思う。

「新しい天使」を見ると、たしかに天使の眼はベンヤミンがいうように大きく見ひらかれている。しかし、その視線の先は地上ではないし、天上でもなさそうだ。というか、そそがれるべき視線そのものが天使の眼からは感じられない。ただ、見ひらかれているその"瞬間"のみが、描かれているようにみえる。歴史というものはカタストローフとしての芸術や言葉を生みだしていくけれど、その当事者は歴史からどんどん置き去りされていく。自律して地上に残るのは人間ではなく「新しい天使」という絵であり、言葉であるということを、絵と言葉そのものが物語っている。

仏像に魂をいれるように、絵の中にベンヤミンは自分の魂を入れた。これほどの事が可能なのは、繰りかえすけれど、クレーが外から平行輸入したようなドグマによりかからず、自分で自分の絵を描こうとしているからだ。既存の思想やビジョンにとらわれることなく、自分をとことん追求する制作態度が、結果として他者の自由な精神を受け容れる抱擁力を生んだのだと思う。クレーとベンヤミンは、芸術の地下通路でひとつになった、といえるのかも知れない。



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by ksksk312 | 2007-10-10 19:41 | 読書美術音楽、etc