両忘

荒井良二さんを知る。

c0091055_22485646.jpg

火曜日の夜。
たまたま見ていたNHKの番組で、絵本作家の荒井良二さんのことを知った。いやはや....すばらしい。いい絵だ。ほんとにいい絵だ。翌日、バイトが休みだったのでさっそく図書館へ。『たいようとオルガン』、『オツベルと象』、『バスにのって』を借りた。

荒井さんの絵の描き方は、自分とかぶっている部分がたくさんあった。
とりあえずなにかを描く。そこからつぎのイメージを拡げる。鉛筆の芯のかけらで線をひく、絵の具を指でこすりつける。画面にすこしでも気に入らないところがあると、容赦なく壊してべつの「場面」を目指していく。もちろん、スケールがぜんぜんちがいます。技術とかキャリアとかもあるけれど、とにかくあそこまで作品に没頭できない。ぼくは制作中でも、描いている時間より描かないで悩む時間のほうが圧倒的に多い。30分考えて、クレパスで線を1本(....しっぱい、みたいな)。荒井さんはとうぜん描いている時間のほうが長いだろう。取り憑かれたように画面に没頭する彼を見ていると、描いている時間と描けない時間が逆転するとき、ひとは「絵描き」になれるのだろうか、と思ってしまう。

荒井さんの「絵描き」としての歩みは、自分を否定するもの(イラストのクライアント、その他諸々)との戦いだったように思えた。自由に絵を描きたい自分が核として存在し、阻害する「外」との戦い、といったらいいだろうか。ぼくの場合は「外」から否定されるというより、いろいろやってきて芽が出なかった自分を否定して、いまの自分があるという感じ。

自由を確保した荒井さんは、自分の制作の中でやりたいことをなんでもやっている。言葉も物語も、どんどん画面の中に放り込んでいる。ぼくは過去にやってきた詩作、8ミリ映画、脚本....などなど、それらは負の歴史として処理してしまっているので、まだ絵の中で自由を確保できていないような気がする。過去の創作は、無意識のレイヤー(層)として作品に反映はされているのだろうが、もっとエネルギーにならないのかな、と思うのだ。絵の中で詩を書いたり、映画を作ったり、そこまで出来ないと不満足だなあという気持ちなのである。

バケツの底を破るには、自分の心理的な成長というより、いろんな紙を試すとか、アクリル絵の具だけで描いてみるとか(まだやったことがない)、具体的な手作業を積むことが大切なのではないか、と思っている。でも、これがなかなかむずかしい。縦サイズでばかり描いてきたので、正方形で描いてみたいとずっと前から思っているのに、まだ実行出来ていない。目の前の画面に取り組むより、新しい習慣を作るほうがなぜかむずかしい。

サイ・トゥオンブリ、MAYA・MAXX、大竹伸朗.....etc。手作業の痕跡があり、人間の感情や記憶が銀河のようにうねる絵。荒井さんも、彼らとおなじ河を流れている。自分の絵がこれからどうなるかわからないけれど、バケツの底が抜けたような自由を見つけたいと思っている。いまはまだ即興モードと計算モードを切り替えつつ(煉瓦を積むように)描いている。なんとかしたいね。
[PR]
by ksksk312 | 2007-12-13 22:57 | 読書美術音楽、etc