両忘

カテゴリ:読書美術音楽、etc( 30 )

ホセ・マリア・シシリア、東松照明。

c0091055_19595730.jpg

土曜日、ひさびさに長崎県美術館へ行って来た。
目的は開催中の企画展(ホセ・マリア・シシリア展)と、常設で展示中の東松照明さんの「ブリージング・アース」。どちらも期待通りの展示でした。

県美術館は開館から3年間、美術評論家の伊東順二さんが館長を務めていたけれど、あまりいい企画展がなかったように思う。例外はエデュアルド・チリーダ展くらいか。しかし今年はホセ・マリア・シシリア展、10月の舟越保武(彫刻家。舟越桂の父親)展、12月からダニ・カラヴァン展と期待できる企画展が目白押しである(とくにダニ・カラヴァン展は大好きな作家なので大注目です)。これらの企画って、伊東さんの置き土産なのだろうか。わからないけど、新館長にも充実した企画展を期待したいところ。

ホセ・マリア・シシリアの絵画は圧巻でした。

蜜蝋をたっぷりと流し込んだ乳白色の画面に、クリムゾンレッドの花が巨大なサイズで描かれている。蜜蝋の効果なのか、色彩に透明感と独特の「翳り」があって、見るものを内に引きずり込む力にあふれている。マーク・ロスコの絵や、ジェームス・タレルのインスタレーションのような感じだろうか。広大な展示空間に14点の連作が並んでいたけれど、見渡すとまるで巨大な花が踊っているようだ。いや、花というより、それは人間の魂の変容した姿のように見える。生きるものの心的エネルギーが炎のように揺れている、そんな感じである。

展示会場の入り口に、アドニスという詩人の言葉が掲示されていた。書き留めなかったので正確な引用は出来ないけれど「絶望の淵を、深い闇から薄明の闇へと移りつつ、この世界をあまねく照らし出す光などないと気がついた。そんな光がもし存在するならば、絵画も詩も死滅してしまうだろう」....たしかそんな内容の言葉だったと思う。たしかに、絶対的な「光」に満たされた世界であれば、五感も必要なければ霊感も無く、恍惚そのものはあっても芸術は生まれないかも知れない。ホセ・マリア・シシリアの絵画には、充実した闇があり、その中で夢見られた光がある。芸術も生命も闇から生まれ、闇に消えていく。そんな暗示があり、賛美しているように思えた。

それと、東松照明さんの「ブリージング・アース」。

東松さんは日本(世界かな)を代表する写真家だけれど、90年代から長崎で暮らしておられ、重要なコレクションが県美術館に収蔵されている。「ブリージング・アース」は、干拓事業で死滅した諫早湾の干潟を、直前に撮影したシリーズ。低露出の光で撮影された干潟の泥の美しさは、とても言葉には出来ない。しっとりとぬれた生き物の皮膚のようで、まさに「呼吸する大地」。この泥のなかにどれほどの魚や貝、バクテリアが棲んでいたのか。こんなに素晴らしい生命宇宙をわれわれは破壊(殺戮)してしまったのだという事実に愕然とする。

人間は美しいし、生命は美しい。世界はそれだけで計れるものではないが、ホセ・マリア・シシリアの絵と、東松さんの写真はそう語っているように思えた。

More
[PR]
by ksksk312 | 2008-08-05 20:02 | 読書美術音楽、etc

『現代美術は語る』から。

c0091055_174378.jpg

1970年頃、エミール・ディ・アントニオという映像作家がアメリカのモダンアートの作家たちにインタビューしてドキュメンタリー映画を撮っています。メトロポリタン美術館で開催された展覧会「ニューヨークの絵画と彫刻1940-70」展にあわせて製作された映画で、当時存命だった重要なペインターはほぼ網羅、画商(レオ・キャステリ)、コレクター(スカル夫妻)、著名な評論家も登場している。映画は見たことは無いんだけど、本にまとまっていて(映画にならなかったインタビューを相当含む)、読むことが出来ます。

『現代美術は語る』エミール・ディ・アントニオ、林道郎訳(青土社)。
すごくすごく、おもしろいです。作家たちと関係者の言葉で語られるアメリカ戦後美術史。入手困難な本だけど、図書館で借りて読めます。

インタビューの中から少し引用します。

われわれのうちの何人かは、作品から対象となるものをすべて取り除きました。怠惰な裸体、花、その他ごちゃごちゃしたもの、つまり最終的には何かしら物語めいたものへと還元されてしまったようなものを、です。....人々は当時美しい世界を描いていましたが、ちょうどその時、われわれは、世界は美しくなどないことを認識したわけです。問題は、われわれおのおの−デ・クーニング、ポロック、そして私−が解明しようとした倫理的な問題とは、「美化すべき何が、いったいあるというのか?」というものでした。だから、きっかけとなる唯一の方法は、まず、美化されうる外側の世界というような観念のすべてを捨さること、そして、われわれ自身にとって重要な何かを表現できる可能性−それは人々がミディアムと呼ぶものですが−を見つけることができるようなポジションへと自分自身を置くことだったのです。(バーネット・ニューマン) 

イーゼルを離れ、小さな絵画から壁画へ、あるいは壁のように大きな絵画へと移行すべき時だと、彼(ポロック)は感じていたし、はっきりと言葉に出しても言ってました。彼は、ナハヴォ・インディアンたちが砂漠で絵を描く時のように、フロアの上で描いたのです。(彼は、西部の出身で、ナハヴォ・インディアンの伝統を知っていたのです)。フロアの上で、四方から、しかも、単なる筆描きや手首を動かすだけでなく、腕全体をキャンバスの上を横切るように動かしながら描いたのです。(ヘンリー・ゲルトザーラー)

つづきを読む。
[PR]
by ksksk312 | 2008-06-20 01:09 | 読書美術音楽、etc

空の美しさにかなうアートなんてあるのだろうか。

c0091055_0235756.jpg

映像作家の飯村隆彦さんが書いたオノ・ヨーコの評伝『ヨーコ・オノ、人と作品』(水声社)を読んだ。とてもおもしろくて内容をまとめたいと思うのだけど、とにかく オノ・ヨーコご本人が書いた序文がユニーク。

「私は美人で、頭も悪くないし、身体もいいし、幼い時から、廻りの人に気を使って、随分尽す性だし、今は、その延長で世界の為に、と自分の出来るだけはしているのだから、自分では何もコンプレックスを感じていない。....それがこれだけ悪口を言われて来た、と云うのはどういうことなのだろう。」

わはは。言われますがな....笑。
しかし、さらに続けて。

「....空の美しさにかなうアートなんてあるのだろうか。私はただ私でありたい、と思って暮らしてきただけだ。その私であると云うことが、そんなに怒りを受けるのだったら、人間社会は恐いと、思う。....自分では、自分のいい子ぶりにウンザリしている位で、片親をなくしたショーンの為に、と思って、万事低姿勢で自重しているわけだが、本当は世界にむかって、バカヤローと叫びたいのが本音だ」

序文が書かれたのは1984年で、ジョン・レノンが他界してからまだ4年しかたっていない。偏見もあったろうし、身の危険を感じることもあっただろう。オノさんが安心していられる場所は、まさに空だけだったのかも知れない。

この人は、自分のやってきたことをすべて正しいと思っている(信じている)。結果として、人生のあらゆる局面において甘やかされる余地がまったくなかった。 「空の美しさに....」というくだりは有名な言葉なんだけど、空を「子宮」と読み替えてみるとおもしろい。この世に産み落とされたしまった赤ん坊が泣きながら叫んでいるようにもみえる。

オノ・ヨーコ。素敵な人なんじゃないだろうか。

instruction art
[PR]
by ksksk312 | 2008-06-17 00:44 | 読書美術音楽、etc

グレン・グールドという希望。

c0091055_23351161.jpg

NHKの『知るを楽しむ』という番組でグレン・グールドが取り上げられている。あたらしい発見はないが、グールドの演奏風景やインタビュー映像がたっぷりと見ることが出来て楽しい。コメントをよせるゲストも吉田秀和、高橋悠治、坂本龍一等々、豪華。とくに高橋悠治さんは(実演を見る機会はあっても)テレビで演奏し、おしゃべりする姿なんてまず見られるものではない。かぶりついてしまった。

グールドのキャリアはビートルズに似ているような気がする。センセーショナルなデビュー、アルバムの爆発的なヒット、時代の寵児となり組まれた過密スケジュール、その後神経をやられてしまいあの前代未聞のコンサートドロップアウト宣言(ビートルズもキャリアの後半はコンサートをやらなかった)。ビートルズも革命児だったが、グールドもクラシックの演奏の伝統から完全に切れていた。

グールドの弾くベートーヴェンの「熱情」ソナタや30番のソナタを聴くと、男性的であったり枯淡の境地であったりという従来の曲のイメージがぜんぜん無いのにおどろかされる。曲や作曲家の全体像、真実を追求することよりも、自分が共感する音符に耳を澄ませ、音楽と自由に対話するのを楽しんでいるようにみえる。

古楽器や演奏法の研究が進んで、いわゆる伝統的な曲のイメージはずいぶん壊れてきたけれど、それでもクラシックの世界で追求されるのは作曲家の「全体像」であり曲の「真実」であり、近代的な意味での聴衆への啓蒙だと思う。グールドのように、自分の好きなように譜面を読み、個から個へとアプローチするアーチストは未だほとんど存在しない。

そんなグールドだが、番組のナビゲーター宮澤淳一さんによると「彼は作曲家として成功したいという野心があった」という。これはおもしろいです。

たしかにグールドの演奏はどれも大胆で、ここまで自由にやるなら自分で作曲したほうがいいんじゃないかと思ってしまう。しかし作曲家としてのグールドは、伝統とぜんぜん切れていないのだ....。高橋悠治さんはグールドの曲を弾きながら「シェーンベルクと技法だけでなく楽想まで似ている。よく勉強しているけれど作曲家としてはどうかな?」とコメントしている。ようするに保守的でオリジナリティにも欠ける、ということ。そして、グールドがコンサートをドロップアウトした頃の現代音楽の潮流はというと、図形楽譜にチャンスオペレーション、電子音楽、ケージ、フルクサス等々....。そんな時代に12音技法による音楽など、いかに緻密で完成度が高かろうと(もはや時代おくれで)耳を傾ける聴衆はいなかっただろう。

もし、グールドの指にあの運動神経がなかったら、彼はどこかの音楽大学で保守的な作曲の教授として終わっていたような気がする。それが演奏芸術とテクノロジー(録音)という「別のフィールド」との接点を持つことによって、革新的で未曾有の仕事を遺すことになったのだ。これはひとつの希望として、ぼくの目にうつります。

グールド、マイベスト。
[PR]
by ksksk312 | 2008-05-27 23:37 | 読書美術音楽、etc

メイルアートの銀河系。

c0091055_11525471.jpg
c0091055_1153993.jpg


Mail Art To And From Dan Waber
コラージュ作家を目指す方におすすめです。
Dan Waberという(たぶん)詩人、コラージュ作家宛に送られた膨大な数のポストカードサイズのコラージュ作品が公開されています。まさにコラージュの大銀河。アマゾンの大樹海に生息するバクテリアの渦を見るような気がします。
[PR]
by ksksk312 | 2008-03-13 11:54 | 読書美術音楽、etc

弥生のモダニズム、青谷上寺地。

c0091055_21583376.jpg

先史時代のゲージュツといえば、縄文しかないと思っていた。
有名な火焔土器(新潟の津南の博物館で見た)、奇抜な顔をした土偶。それにくらべると弥生はイモ....。義務教育でもそう教えられてきたと思う。

ところが。日曜日、NHKのETV特集で鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡のことを知り、自分の常識が木っ端みじんに吹き飛んだ。みなさま、ご覧になりましたか。

青谷上寺地遺跡は、弥生時代の大規模な集落遺跡....。出土品は三内丸山遺跡クラスのもので、弥生の"タイムカプセル"ともいわれているらしい。テレビで見ておどろいたんだけど、とにかく木器、木工品がすごい。斬新なデザインばかりで、仰天した。技術的も相当高度なものらしく、専門家でもどうやって作ったのかよくわからないらしい。そんな弥生の木器の完全な復元を、NHKは3人の人間国宝(木工の人間国宝は4人しかいないらしい)に依頼して、製作過程をカメラに収めている。

まったく、感動的な番組だった。

人間国宝の方々は、遺物を手に取っただけで、弥生の木工職人がどれだけ強者だったかを見抜いていく。「木がいい」。「よく選んでいる」。材料や加工法を吟味していくうちに、3人の顔つきがどんどん変わっていく。遺物の中に、弥生の職人魂が残っているのだ。数千年の時を超えても、いいものを作りたいという想いは同じで、その道を極めた方にそれは確実に伝わるのである。

実際の制作にはいると、これがほんとに真剣勝負なんだな....。一流の工芸家がものすごい集中力で作品と格闘する姿がカメラにとらえられている。復元された工具を思うように使えず、まるで絶壁にはりついて喘ぐような顔つきで悪戦苦闘する場面もある。弥生の木器がそれほどのものだということ、弥生時代に、現代の人間国宝クラスの職人がいたという事が、びんびんに伝わってくる。

完成した復元品は、ほんとに見事なものでした。

縄文のようなエネルギッシュな生命力はないが、繊細極まりない曲線、極限まで薄くした平面、スタイリッシュで上品なのだ。まるで北欧家具のようにもみえる。弥生のモダニズムというのは単なるこじつけに過ぎないが、デザインには機能美というか、形態の美しさ追求しているところは(あきらかに)ある。個人的には丹下健三の初期の建築を彷彿とさせる、和と合理性の融合みたいな匂いを感じたりもした。

青谷上寺地遺跡の発掘はまだ終わっていないという。
弥生、おそるべし。
[PR]
by ksksk312 | 2008-02-22 21:55 | 読書美術音楽、etc

荒井良二さんを知る。

c0091055_22485646.jpg

火曜日の夜。
たまたま見ていたNHKの番組で、絵本作家の荒井良二さんのことを知った。いやはや....すばらしい。いい絵だ。ほんとにいい絵だ。翌日、バイトが休みだったのでさっそく図書館へ。『たいようとオルガン』、『オツベルと象』、『バスにのって』を借りた。

荒井さんの絵の描き方は、自分とかぶっている部分がたくさんあった。
とりあえずなにかを描く。そこからつぎのイメージを拡げる。鉛筆の芯のかけらで線をひく、絵の具を指でこすりつける。画面にすこしでも気に入らないところがあると、容赦なく壊してべつの「場面」を目指していく。もちろん、スケールがぜんぜんちがいます。技術とかキャリアとかもあるけれど、とにかくあそこまで作品に没頭できない。ぼくは制作中でも、描いている時間より描かないで悩む時間のほうが圧倒的に多い。30分考えて、クレパスで線を1本(....しっぱい、みたいな)。荒井さんはとうぜん描いている時間のほうが長いだろう。取り憑かれたように画面に没頭する彼を見ていると、描いている時間と描けない時間が逆転するとき、ひとは「絵描き」になれるのだろうか、と思ってしまう。

荒井さんの「絵描き」としての歩みは、自分を否定するもの(イラストのクライアント、その他諸々)との戦いだったように思えた。自由に絵を描きたい自分が核として存在し、阻害する「外」との戦い、といったらいいだろうか。ぼくの場合は「外」から否定されるというより、いろいろやってきて芽が出なかった自分を否定して、いまの自分があるという感じ。

自由を確保した荒井さんは、自分の制作の中でやりたいことをなんでもやっている。言葉も物語も、どんどん画面の中に放り込んでいる。ぼくは過去にやってきた詩作、8ミリ映画、脚本....などなど、それらは負の歴史として処理してしまっているので、まだ絵の中で自由を確保できていないような気がする。過去の創作は、無意識のレイヤー(層)として作品に反映はされているのだろうが、もっとエネルギーにならないのかな、と思うのだ。絵の中で詩を書いたり、映画を作ったり、そこまで出来ないと不満足だなあという気持ちなのである。

バケツの底を破るには、自分の心理的な成長というより、いろんな紙を試すとか、アクリル絵の具だけで描いてみるとか(まだやったことがない)、具体的な手作業を積むことが大切なのではないか、と思っている。でも、これがなかなかむずかしい。縦サイズでばかり描いてきたので、正方形で描いてみたいとずっと前から思っているのに、まだ実行出来ていない。目の前の画面に取り組むより、新しい習慣を作るほうがなぜかむずかしい。

サイ・トゥオンブリ、MAYA・MAXX、大竹伸朗.....etc。手作業の痕跡があり、人間の感情や記憶が銀河のようにうねる絵。荒井さんも、彼らとおなじ河を流れている。自分の絵がこれからどうなるかわからないけれど、バケツの底が抜けたような自由を見つけたいと思っている。いまはまだ即興モードと計算モードを切り替えつつ(煉瓦を積むように)描いている。なんとかしたいね。
[PR]
by ksksk312 | 2007-12-13 22:57 | 読書美術音楽、etc

引用『クレーの贈り物』平凡社

c0091055_07136.jpg

クレーの絵画に「詩」を感じない人間はいないだろう。だがそこに私たちが感じ取る「詩」は、たとえばシャガールの絵画に感じる「詩」とは、根本的に異なっている。それは「詩」と「詩的なもの」の違いであると言ってもいい。シャガールは現世のうちに、そこに生きる人間の生活のうちに「詩」を発見していたが、クレーは、グローマンの言葉を借りれば「現世から遠く離れたかなたに創造の拠点を置く。」そこでは「詩」は、部分的にはともかく全体として見れば、人間味のあるものでもなく、温かいものでもない。それは私たちを取り巻く時空、つまり宇宙のありかたと等しい。そこでは此岸と彼岸が同時に存在している。原子と星雲が重なり合っている。人間と樹木が同じ自然に統合される。(谷川俊太郎)

アンドレ・マッソンと共に私はクレーを発見した。その精髄を、である。最初はラスパイユ通りの大きな書店で見た本に複製画を見つけ、それから、ヴァヴァン通りの角にある画廊(ギャラリー・ヴァヴァン・ラスパイユ)で実物を見た。画廊主はときどきクレーを訪ね、そのたびに数点の作品を持ち帰ってくるようだった。エリュアールもクレヴェルもクレーに夢中になり、クレーにまで会いに行ったそうだ。だがブルトンはクレーを無視していた。(ジョアン・ミロ)

ベルンの美術館に行くと、クレーの作品がいつでも見られる。見るたびにため息が出る。(安野光雅)

この春、右眼が見えなくなったので、目をつぶってドローイングすることに熱中した。視覚的な束縛から完全に自由になった新発見のうれしさにひたっていたら、夏が来て、深い眼をしたクレーが、「私がまっ暗闇でもデッサンできたよ」と言って現われた。(合田佐和子)
[PR]
by ksksk312 | 2007-10-19 00:10 | 読書美術音楽、etc

新しい天使。

c0091055_19395197.jpg

さいきん、パウル・クレーが気になっている。

クレーの芸術には、自分で自分の絵を描こうとする強い力を感じる。同時代のシュルレアリストや抽象画家(モンドリアンやカンディンスキー)が、制作のよりどころを精神分析や神秘主義に求めていたのとはちがい、自分でアルファベットを作り、文法を練り、詩を書いたかのような自律性がある。多作で、画布だけではなく、いろんな支持体に作品を描いた。サイズが小さいところにも親近感を感じる。

クレーの絵を見るとまず、理解できない外国語の"響き"を聴くような、そんなもどかしさをおぼえる。アルファベットも文法もあるはずなのにわからない。しかし、そこには意味の気配があり、自分の舌では発声できない未知の世界の響きがある。じっと見つめていると、絵はやがて見るもの自身の鏡となり、見るものから芸術的な創造や言葉をひきだしてくれる。

図書館で借りた『クレーの贈り物』(平凡社)という本。
クレーの絵と、そこからインスパイアされ生み出されたいろいろな言葉が紹介されている小さな画集だが、とりわけドイツの思想家で、ナチスに追われて悲劇的な死を遂げたヴァルター・ベンヤミンの言葉が心に残った。彼が生涯愛蔵していた「新しい天使」という絵についての断章である。


「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破裂されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にからまるばかりか、その風のいきおいがはげしので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらは進歩と呼ぶものは、この強風なのだ。

ヴァルター・ベンヤミン「新しい天使」


「風のいきおいがはげしので、かれはもう翼を閉じることができない」、彼のいう歴史の天使は、戦争の世紀と呼ばれた20世紀そのものであり、ベンヤミン自身の運命をも暗示している。さらにいうと、9.11テロで幕が開け、環境のカタストローフがはじまりつつある21世紀の未来も連想させるし、(飛躍した読み方だが)"新しい天使"はゴッホや宮澤賢治など、自ら生みだした強風によって未来へと吹き飛ばされていった芸術家たちの姿であるようにも感じる。なんて深い言葉なんだ、と思う。

「新しい天使」を見ると、たしかに天使の眼はベンヤミンがいうように大きく見ひらかれている。しかし、その視線の先は地上ではないし、天上でもなさそうだ。というか、そそがれるべき視線そのものが天使の眼からは感じられない。ただ、見ひらかれているその"瞬間"のみが、描かれているようにみえる。歴史というものはカタストローフとしての芸術や言葉を生みだしていくけれど、その当事者は歴史からどんどん置き去りされていく。自律して地上に残るのは人間ではなく「新しい天使」という絵であり、言葉であるということを、絵と言葉そのものが物語っている。

仏像に魂をいれるように、絵の中にベンヤミンは自分の魂を入れた。これほどの事が可能なのは、繰りかえすけれど、クレーが外から平行輸入したようなドグマによりかからず、自分で自分の絵を描こうとしているからだ。既存の思想やビジョンにとらわれることなく、自分をとことん追求する制作態度が、結果として他者の自由な精神を受け容れる抱擁力を生んだのだと思う。クレーとベンヤミンは、芸術の地下通路でひとつになった、といえるのかも知れない。

More
[PR]
by ksksk312 | 2007-10-10 19:41 | 読書美術音楽、etc

ニューシャネル、来たる。

c0091055_13401596.jpg


大竹伸朗の回顧展が福岡市美術館で開催されている。
名付けて『路上のニュー宇宙』展。

大竹伸朗というアーチストのことを知ったのは、80年代の終わり頃だ。
ブライアン・イーノが好きで、アルバムのアートワークをしていたラッセル・ミルズのことを知り、その流れで彼のことも知った。小さな画集もいくつか持っていて、雑誌で特集が組まれるとたいてい買う。昨年の東京都現代美術館での『全景』展も喉から手が出るほど?行きたかったが、個人的にいろいろキツイ時期で、上京出来なかった。

大竹伸朗の作品、なんかもう生理的に好きである。色といい画面の質感といい、途方もない質と量のコラージュといい、パワフルで言葉が出ない。アートを見るときに、言葉が出ないというのはとても重要で、大竹のようなわけのわからない快感原則が渦巻いている作品こそが、ほんとうの意味での作品なのではないかと思う。ようするに、何度見ても飽きない。どこかにあたらしい発見があるし、発見がなくても飽きない。ぼくもそういう絵を描きたいと願っている。

現代美術は規模が大きいこと、氾濫する美術情報の中で個性を打ち出さねばならないこと、たぶんそういう事情もあってか、(まるでハリウッド映画のように)一見しただけでアーチストの意図がわかってしまうものが少なくない。遊園地のジェットコースターや観覧車が、乗らなくても(見ただけで)どんなものかわかってしまうように、作品の"意図"がわかりすぎて物足りなさを感じるときがある。

けれど大竹伸朗には、乗らないと何が起こるかわからない、乗っても何が起こったかわからないという、快感原則とイリュージョンが横溢している。彼については、ポップアートやジャンクアートの再生産している過ぎず、美術史を乗り越えていくようなものではない....という意見をあちこちで読むけれど、"新しさ"や"意図"の生産と消費を繰りかえす現代美術の世界において、真に価値ある仕事を続けているアーチストではないかと思う。

エッセイ集『既にここにあるもの』を読むとよくわかるのだが、大竹伸朗は"全身芸術家"である。目の前に転がっているもの、そこから芋づる式に導きだされるさまざまな記憶、自分の内と外から響いてくるあらゆるノイズに刺激を受けて、作品を産み落としていく途方もない"変圧器"である。『路上のニュー宇宙』展は、作品点数だけをみるなら『全景』展の3分の1程度に過ぎないけれど、それでも約600点。福岡市美術館の展示室Aをすべて埋め尽くすのだから、規模は大きい。

17日と18日。一泊二日でじっくり鑑賞する予定。『全景』展を見逃した仇を取るのだ。17日は、ダブ平&ニューシャネルのライブ(内藤和久というギタリストとのジョイント)もある(整理券が当たりました!)。楽しみ、楽しみです。

More
[PR]
by ksksk312 | 2007-08-13 13:40 | 読書美術音楽、etc