両忘

カテゴリ:読書美術音楽、etc( 30 )

引用/大竹伸朗『既にそこにあるもの』

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「釧路に着き、根室行きの列車接続の2時間に、街中に出て「十円を拾おう」と僕は決意した。「なにがなんでも十円を拾うのだ」と、元日の雪の釧路の街中をひたすら下を見て歩きまわった。傍から見たら、さぞかしめでたい光景であったにちがいないが、そのとき、十円玉一個を見つけることにそれから先の、絵描きへの人生すべてがかかっていたのだ」 135頁

「21の時、初めて訪れた外国の地、ロンドンで、とりあえず自然に始めた事は、1日が終わり、手元に残った印刷物を単純にノートに貼ることだった。....自分のやりたいことどころか、自分の存在から遠い遠いところで世の中勝手に動いているような日々で、印刷物をノートに貼るという行為は、そんなある種の疎外感から来る圧迫感を少しでも軽くする方法といったものに近く、作品創作だとかコンセプトだとか道筋をたてて考える余裕などなかった。放り出された全くあてのない海原で、とりあえず「漕ぐ」ことを無理矢理「意味」にしていく意外方法は何もなかった」 46頁

「今日は一体何をした。仕事場へ行き、拾った昔の電子レンジをばらし、まだ動くモーターの回転を利用して音が出るものにしようと努力した。そして、モーターのプロペラに薄手のプラスチックシートの切れ端を3センチばかり突っ込むとバイクのエンジン回転もどき音が出ることがわかった。そして、もう一つ、スペイン、モロッコ、中国、香港、アメリカ、トルコの新聞紙を3〜8センチの幅で帯状に切り、木工用ボンドで指で一枚づつ塗り、脚立の登り降りを繰り返した制作中の立体物の布の表面に貼った。今日したことと言えば、その二つだ。進行中の立体物の当面の目的、そしてそれが一体いつ終わるのかといったことは僕自身にもまったくわからない。ただわかったいるのは、今これをどうしても作らねばならないといった強い思いでしかない」 19頁

「画家とか彫刻家、造形作家、どう呼ぼうがどうでもいいが、そう自ら名乗る人間にとって、作品制作における"意図"とは一体何なのだろう。意識的な制作意図をどこかしら超える瞬間のないものは、もはや"作品"とは呼べない。僕はこの"作品"と"意図"の関係が今でも不思議でならない」 59頁

大竹伸朗『既にそこにあるもの』(ちくま文庫)
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by ksksk312 | 2007-08-12 21:39 | 読書美術音楽、etc

ダンス雑感。

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NHKの芸術劇場が4月から金曜日に移動しています。
マツザカの特番を見ているとき、なにげにチャンネルを変えて気づく。
アントニオ・ガデス舞踊団の『カルメン』と、パリ・オペラ座バレエ『若者と死』の二本立て。予想外に面白くて...テレビとはいえ、バレエを最後まで見たのは初めてかも知れない。ちょっと古いネタだけど、印象をまとめてみた。

『カルメン』。ヨーロッパでは忠臣蔵みたいなものなので、いろんな舞台、映画があるにちがいないが、とりあえずゴダールの映画とビゼーのオペラは大好きである。『カルメンという名の女』は映画館で4回見た。オペラは生で観劇したことはないが、2種類のDVDを持っている。

アントニオ・ガデスの『カルメン』というと、まず思い浮かぶのは80年代にヒットしたカルロス・サウラの映画。しかしながら、スペイン映画はビクトル・エリセしか認めないという偏見が個人的にありまして、未見。ぜんぜん縁がないままテレビで見るまで20年。ガデスもすでに亡くなっていたみたいで、残念ではある。

見た感想。とにかく、すべてが洗練されていた。
フラメンコの舞台なのだが、クラシックバレエやオペラのエッセンスがたっぷりと盛り込まれていて、非常に芸術性が高い。ソリストの踊りもすばらしいが、
とくに群衆として踊る大勢のダンサーたちが素晴らしい。情熱的なギターのリフに正確にシンクロする、パワフルなステップ。これはもう、人間を楽器にしたオーケストラとしかいいようがない。まったく、オーケストラだ。

おどろくのは、洗練されているのに、フラメンコの猥雑さや体臭がまったく消えていないこと。というか、洗練されているがゆえに、不純物が消え、欲望のエキスのようなものが蒸留され濃縮されている。立派な媚薬である。すごいと思う。ハイ・カルチャーからサブ・カルチャーへ下りるにつれて、表現は猥雑になり刺激的になるものだが、ひょっとするとダンスに関しては逆なのかも知れない、と思う。

もうひとつのパリ・オペラ座バレエの『若者と死』は、男女ふたりのソリストのみで演じられる一幕物の小品(台本ジャン・コクトー、振付ローラン・プティ)で、放送時間の穴埋めにオンエアされたような感じ。けれど、内容は濃い。

不実な女を愛して悩む青年と、青年の心をを知りつつ弄ぶ女。哀れな青年が追いつめられ縊死するまでのドラマが、台詞無しのパントマイムで演じられていく。
まずは、衣装の色彩に目を奪われた。輝くような黄色のワンピースを着た女と、青いジーンズをはいた半裸の青年、そのコントラスト。ジャンプと回転を繰りかえすうちに、ふたりがまるで月(黄色)と地球(青)を演じているように思えてくる。きまぐれな月(女)は地球(青年)の軌道を回ろうとせず、追いかける地球は彼本来の軌道を見失っていく。そして破滅の淵へ...。

音楽は、バッハのパッサカリア(オーケストラ編曲版)が使われている。これはコクトーの台本に元からあるのか、それともプティのアイデアなのか...。パッサカリアは、16歳のとき初めて買ったクラシックのレコードに収録されていた曲だけど、当時はぜんぜん理解できなくて、ただただ圧倒された記憶がある。けれど、聞くべき人が聞けばこういうドラマが生まれるんだな。才能というものはすごい。

フラメンコとクラシックバレエ。

フラメンコは、ステップの芸術だ。重力に逆らうことなく、ひたすら床を踏みしめ、打ち続ける。人間と大地のコラボレーションといってもいいかも知れない。地面の下に宿る生命をたたき起こし、芽吹かせるかのようなエネルギッシュなステップ。その起源についてはなにも知らないが、キリスト教以前の土着的な地母信仰を連想させなくもない。(日本公演は2月下旬から3月にかけて行なわれたようなので、啓蟄の季節にふさわしい舞台だったのではないか)

いっぽうのクラシックバレエには、床をしっかり踏みしめるという動作がない。ダンサーの動きはひたすら軽やかで、体格に見合った重さというものを感じさせない。まるで、人の姿をした「空気」が踊っているようにもみえ、床や重力の存在を滅却したがっているようですらある。

クラシックバレエの目指すところは、地面の下の生命力ではない。ダンサーのジャンプや回転が目指すのは常に上の世界であり、もっと観念的な世界、近代的な美を追究しているように思える。土着であるところの床や重力は抗うべきものであり、できればないことにしたい「現実」なのだろう。床がないと踊れないのに、うち消したいなんてとってもエディプス的。おもしろいぞ。今度は生で舞台を見てみたいな。
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by ksksk312 | 2007-06-05 17:17 | 読書美術音楽、etc

北川浩二「静かな顔」

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ひさびさにポエトリージャパンにアクセスした。

目に飛び込んできたのは「静かな顔」という詩...。言葉を失った。北川浩二という、はじめて聞く名前の詩人だったけれど、ほんとに言葉を失った。

涙があふれそうになるが、詩が泣きべそをかくなと語りかけてくる。人生の深い底から書かれた言葉にちがないのだけど、ヘヴィーにならず、自己慰安にもならず、凛としている。リンク先の「うつくしい孤独」もとてもいい。

谷郁雄さんのポエトリーブック(詩と対談集)『旅の途中』のなかで、三代目魚武屋濱田成夫が、詩人を野球のピッチャーにたとえている。「俺、詩人って野球のピッチャーのようなものだと思ってるんですよ。ピッチャーというのはみんな同じボールを投げるのに、 スピードも違えば変化球も違うし、球種も全部違う。 だけどルール(日本語)を守って投げてるし同じボールなんですよ ...問題はスピードなんです。つまり何キロ出てるかが問題で、130キロ以下だったらプロにはなれない」

ならば、北川さんはどんなピッチャーだろう。

「静かな顔」と「うつくしい孤独」を読むと、このひとは投球フォームの美しさだけで三振をとってしまえるような、そんなピッチャーじゃないかと思えてくる...。彼には速球も変化球もない(あっても投げない)。ただただ一球一球に想いをこめる。その姿勢にうたれて、バッターは球を打ちかえす仕事を忘れてしまう。

睡眠不足の朝。起きて愛犬を空き地へ連れ出す。

今日という日が、明日が、白紙のノートを差し出している。自分で問題を書き、解答しなければならない。北川さんの詩に触れて、とにかく希望をもたなきゃ、という気になった。さまざまな技法やトレンドがあふれかえる現代詩の世界で、こういう青天白日な書き手がちゃんといるのだ。詩集『再会』、オンラインですぐに購入しました。

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by ksksk312 | 2007-05-10 23:44 | 読書美術音楽、etc

カルロ・マリア・ジュリーニ頌

月曜日、佐世保に帰る前。
自分へのご褒美というわけではないけれど、CDを一枚買うことにした。

欲しかったのはベートーヴェンのチェロソナタ。 しかし意中の演奏家のディスクがなかったので予定変更、ひさびさにカルロ・マリア・ジュリーニのディスクを買う。 シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレート」。オケはシカゴ交響楽団である。

ジュリーニは、70年代半ばに、シカゴ響とマーラーやブルックナーなど、大作曲家の第9交響曲ばかりをレコーディングしていた時期がある。 どれもが大変な名盤で、クラシックの愛好家なら、どれか一枚は持っているのではないだろうか。

カルロ・マリア・ジュリーニは、本物のカンタービレを聴かせてくれる、20世紀最後の指揮者だった。 ということは21世紀の現在、もはや本物のカンタービレはナマでは聴けない、ということになる。

とにかく、ジュリーニはオーケストラを美しく歌わせる。弦も、木管も金管も、ティンパニだって歌わせてみせる。 しかもそれぞれの歌がばらばらにならず、すべての楽器がみごとに溶けあって、芳醇なワインのようなサウンドになるのがすごい。 たとえばそれは、ドヴォルザークの新世界交響曲のような、有名すぎて通俗といってもいいような曲を聴くとよくわかる。 中学校の音楽の時間、だれもが聴かされた第2楽章。ほとんど歌謡曲なのに....絶品なのである。 ジュリーニが指揮をすれば、日本国国歌だって、プッチーニのアリアみたいになるのではないか。

それはこのシューベルトでも徹底している。
いやはや...泣きたいほど美しいのだ。

「ザ・グレート」は、晩年に集中的に書かれたピアノソナタと同様、楽想の反復が多く、演奏時間が長い。 ゆえにほとんどの指揮者はテンポを揺らし、激しいアクセントをつけ、ダイナミックに曲を展開させる道を選ぶ(そうしないと退屈で持たない)。 しかしジュリーニは、あまりテンポを揺らさず、正確な歩みの中にじっくりと楽想を歌い上げるという演奏をしている。 男性的な曲なので激しいところは徹底して激しいが、どこを切っても、ジュリーニ流の高貴なカンタービレにあふれている。

とくにおどろかされるのが、第一楽章の第一主題。ホルンの序奏で始まり、弦、木管金管とメロディが歌いつがれた後、 音楽がピークに達した直後の「とぉ〜て、とぉ〜て、とぉ〜て、とぉ〜ててぇ」というあの部分である。 ほとんどの指揮者は、ここではテンポをどんどん上げ音楽をさらなるピークへ運ぼうとするのだが、ジュリーニはオケの力をふっと抜いて、 優雅なレガートで切り抜けていく。こんな不思議な演奏は聴いたことがない。

CDの解説(萩原秋彦氏)を読んで初めて知ったのだが、この部分にはフレージングやアーティキュレーションの指示がないのだという。 つまり、派手に駆け抜けようがレガートでさらりと歩こうが指揮者の自由というわけ。 ジュリーニはスコアの指示を無視して演奏していたわけではない。いままでの指揮者が、慣例にしたがって演奏してきただけなのだ。

一見するとそのアプローチは、あたかもジェット機が離陸の真っ最中にエンジンのスロットルを緩めるような、無謀な行為のようにみえる。 成層圏に向かって一気に上昇していくべきなのに、鳥のように水面すれすれに飛行しようとしているのだ。 音楽は失速の危機に瀕するが、力を抜くことによって、パワフルなサウンドの陰に隠れていたシューベルトの「歌心」があとからあとからあふれ出る。

作曲家の意図から逸脱せずに、これだけ個性的な音楽を作り、しかもより作曲家の本質に迫るような演奏。 これを芸術といわずして何といおう。素晴らしいディスクに、いますっかりハマっている。

カルロ・マリア・ジュリーニ。
音楽の神(あるいは業界)に愛された名指揮者は数多いるけれど、オケの楽団員に心から愛された名指揮者はけっして多くない。 彼は数少ない例外だった。人間(楽団員)に愛された指揮者だけが、オーケストラを歌わせることが出来る。

こういう音楽家と、音楽家の生涯が、世界にはまだまだ足りない。

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by ksksk312 | 2007-02-11 01:32 | 読書美術音楽、etc

パンダから貴公子へ。

日曜日、ニューイヤーコンサートを再放送で見た。
ニューヨークフィルの音楽監督時代にどか〜んと太り、もはや指揮台でパンダが踊っているようにしか見えなくなったマエストロ、 ズービン・メータ。ひさしぶりにテレビで見た姿は、髭をそり落とし、すっかりスリムになっていてびっくり。 デッカの貴公子として業界に君臨していた頃の勇姿を彷彿とさせるではないか。演奏もきびきびしていてよかったぜ。

ただ、もちろん歴史的な名演というわけではない。
3曲目か4曲目で「うわごと」が始まったとき、耳ではメータの演奏が聞こえてくるのに、頭の中ではカラヤンの名演が鳴り響いているという。 ...困ってしまったが、しょうがないよね。

テレビ中継で楽しみなのはバレエと観光の映像。
と、いいたいところだが、せっかくのコンサートなのでやはりウイーンフィルの演奏が見たい。 正直、毎回ちょびっと退屈している。バレエが流れているときは「バレエを見るんだ」と気持ちをシフトさせなきゃな、 と毎年おなじみの「美しき青きドナウ」のバレエ映像を見ていて気づくが...。来年、挑戦。

観光映像は、「水車」のときに水車を映すとか噴飯もの。
ただ「町と田舎」での田園風景はよかったです。緑多い丘陵地帯の彼方に見える高層建築群は、東京の新宿風景とはぜんぜん違う。 手塚治虫のマンガに出てくる未来都市みたい。 ホンス・ホラインの建物もちらりと出て、ウイーンはシュテファン大聖堂と旧市街だけではないのだなと(行けばすぐわかるんだろうが)納得し、 面白かった。

ところで。来年の指揮者はジョルジュ・プレートルに決まったようだ。
これはすごい。すごいぞ。

プーランクのスペシャリストで、フランスのエスプリや享楽性、諧謔性を知りつくした老巨匠とウインナワルツ、相性がよさそうである。 調べてみると、プレートルはウイーン響(ウイーンフィルとは別です)の常任を務めたことがあるではないか。 ひさびさに花のあるキャスティング、と個人的に思う。現在82歳と高齢だが、なんとしてでも指揮台に這い上がって歴史を作っていただきたい。
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by ksksk312 | 2007-01-13 21:25 | 読書美術音楽、etc

くるくるぱー。(カルロスの記憶)

HMVのサイトをのぞいていみると、2007年のニューイヤーコンサートのCDとDVDの予約が始まっていた。 2007年...まだ行なわれていないライブである。なのにパッケージは出来ていて、画像がサイトにアップされている。発売は来年の1月末。

ニューイヤーコンサートのライブ盤は、音楽業界最速のリリースらしいが、あまりの気の早さに(毎年のことながら)呆れてしまいます。

ウイーン・フィルのニューイヤーコンサート。

毎年かならず話題になるのは、誰がその年の指揮台に上るかということ。79年にボスコフスキーが引退してからは、 メータ、ムーティ、マゼールの3人のローテーションを基本として、あいだに単発で別の指揮者が呼ばれてきた。 もっとも、指揮者が代わったからといって、音楽がそれほど変わるわけではない。 野球でいえばオールスター戦にみたいなものなので、真剣勝負をやるとかえって文句が出る...オザワさんとかさ... (団員はみんな、アルコールが抜けてないんだよ)。

ただ、もちろん例外もあって、89年と92年のカルロス・クライバー。 これは...(まあ、あらためてぼくがいうことでもないけれど)空前絶後の名演奏だったです。87年のカラヤンもよかったけれど。

89年の初登場。クライバーがステージ姿を現わすまでのびりびりとした緊張感は、テレビを通しても伝わってきたっけ。 稀代のカリスマ、しかし迷惑なキャンセル魔としてびたび問題を引き起こすマエストロ、ほんとうに姿を現わすのか、はらはらどきどき...笑。 指揮台に無事に上ったときは、それだけでほっとしたりして。
そして演奏は...まったく目も眩まんばかりの美しさ。しなやかでエレガントな指揮ぶりにはため息が出た。 ほかのどんな指揮者とも、全然ちがうのだ...。 テレビの解説者は「クライバーにしてはおとなしい」と言ってたけれど(ぼくもそう感じた)、 いま聴きなおすとまったくそんなことはない。ニューイヤーコンサートにはめずらしい異様な緊張感が、あの高貴な演奏を実現させたのだろうと思う。

けれど、それを凌駕するのが92年の再登場。

このときは、「カルロスを楽しんでやるぞ」みたいなワクワク感が会場にあふれていたし、 クライバーのほうにも「いてまえ」みたいな覚悟があったように思う。実際、カルロスくん、ちょっと壊れている。 けれど、狂気のひとカルロス・クライバーは、ちょっと壊れてくれたほうがいい。

このコンサートの熱狂と楽しさは、全盛期のハリウッド、ミュージカル映画を思い出させてくれる。 フレッド・アステアやジーン・ケリーのタップ...、死人でも叩き起こして踊らせてみせる、みたいなパワーが、 この歴史的なコンサートにはあふれている。ただただ、熱狂。しかし音楽はまったく崩れず、エレガント。カルロスくんは、 オーケストラを指揮をしているのか、音楽に酔って踊っているのかわからないような動きをしている。魔術である。

もし、人生で「興奮の坩堝」という言葉を一回だけ使えといわれたら、 ぼくは迷わず92年のカルロス・クライバーのニューイヤーコンサートに使うだろう。

「彼はクルクルパーですから」

天才を評して、ウイーンフィルのコンサートマスター、ライナー・キュッヒルは、 日本語でそう言ったという(氏は夫人が日本人で、日本語が出来る)。うまいこといいますなあ。 クライバーは天才だったけれど、奇行も多く(テレーズ事件はあまりにも有名)、オーケストラとのトラブルが絶えなかった。 けれど、いったん指揮台に上れば、われわれを 違うプラネットに連れて行ってくれた。

来年のニューイヤーコンサートは、ズビン・メータである。

いちおう(惰性で...)見るだろうが、カルロス・クライバーのDVDも見ちゃうだろうな。 このディスクは落ち込んだときのカンフル剤なので、年がら年中見ているのだけど、やっぱりお正月には見たい。 というか、すでにもう何回か(適当にはしょりながら)見た。彼の楽しそうな棒ふりを見ていると、お正月がどんどん近づいてくるように思える。

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by ksksk312 | 2006-12-28 14:33 | 読書美術音楽、etc

神園宏彰氏の個展「線による試行」

2週間ほど前になるけれど、福岡まで足をのばして、展覧会や現代美術作家の個展を見て回った。 福岡県美術館(『大岡信コレクション展』)や青山ブックセンターのギャラリー、アートスペース獏にもひさびさに行った。 どれもおもしろかったが、そのなかから神園宏彰という方の個展(九州日仏学館、12月22日まで)について、書き記しておきたい。

神園さんは1960年生まれの写真家、美術作家、福岡市在住。
どういう仕事をしてこられたのか予備知識はゼロ。 たまたま新聞のタウン情報欄に載っていた作品の画像と個展のコンセプトに惹かれて、チェックをいれた。 「線の試行」とは、印刷物やデジタルデータなど氾濫する時代に、ものを描くということはどういうことか、 身体性の復権として絵画をとらえ直そうとする試み、そのための方法として「線」であるらしい。。

会場のギャラリーに入ると、入り口から向かって上手の壁に横長の平面作品が1点、貼り付けてある。 幅が1メートル50センチくらい、長さは10メートルを超えていただろうか。壁におさまりきらないので、左端は巻紙状になっている。 タイトルは『遠景』だという。

入り口から作品をながめると、画面全体からぼんやりと灰色の影がグラデーション状に浮き上がって見えた。 なんだろう...。遠くからは、彩色されているのか、それとも紙の質感によるものなのかわからない。 正体はなんと...極細の水性ボールペンで、画面上から下へと、ほぼ数ミリ間隔でびっしりと描きこまれていた(おそらく数千本の)黒い線であった。

これは、なんといったらいいのだろう。
線は定規をあてて引かれたものではなく、フリーハンドで描かれているので(ものすごい作業だ)、上から下へと微妙に揺れながら流れていく。 即座に連想したのは地震計の波形だが、線の密度から指紋のようにも、あるいは地図の等高線のようにもみえる。サイズがサイズだけに異様な光景。 なんか、すごい。

描かれている線はきわめて抽象的で、記号としての機能も物語性も拒否されている。 しかし、画面と対峙して喚起されるのは濃厚な人間の痕跡であるのにおどろかされる。 神園さんは自身のウエブサイトで「人間がはじめて引いた線は、どんな線だったろう」と問題提起しているが、 あたかもラスコーの洞窟壁画を発見した少年たちのように、作品を見ていると「この線は人間が描いたものとしか考えられない」 「人間にしか描けないものだ」という始源的なおどろきと新鮮さが湧きあがってくる。

別の言い方をするならば、それは狩人が深い森のなかで、突然たき火の跡を見つけたときのような...そんな感触かも知れない。 あり得ない場所で不意に遭遇する、人間の気配。そんなリアルな体験は、われわれの生活空間では不可能といっていい...。

人工物と人間があふれる都市空間のなかで、人間の痕跡(自分や他者、さまざまな類型を超えた人間の感触)、 ようするに身体性を意識することはほとんどなくなってきている。『遠景』は、都市空間に埋没した身体性を復権させるための装置であり、 リアルな「身体」そのもののといってもいいかも知れない、と思った。

さらに、個展では『遠景』のほかにもうひとつ、墨と鉛筆によるドローイングのシリーズも展示されていたので、ひと言。

こちらのシリーズは、縦長の画面に墨や鉛筆を自由に走らせ、抽象的な世界を追求したもの。 線の流れは即興的ではあるけれど、内的な調和や秩序があり、それぞれの画面で独自の世界が成立している...。 しかも、その世界はけっして完結しておらず、動的で、生々流転する過程の一瞬をとらえたもののようにもみえる。

ぼくには、墨や鉛筆で表現されたイメージが、縦長の「スペース」と格闘しているように見えて面白かった。 スペースのなかで(意図的かどうかはわからないけれど)線が調和と秩序を求め、同時に画面から飛び出そうともしている。 陰陽相反する力が画面のなかで運動をしているのだ。

縦長のサイズというのは、西洋絵画ではイコンや肖像画を原点とするのだという。 ...いや、西洋絵画にかぎらない。神の図像というのは、どの文化のものでもおむね縦のサイズにおさまるように描かれている。 (反対に横長は風景画を原点とする)
絵画の歴史とか観念の在りようが、縦長のフォーマットのなかで(必然的に)省察されているのかも知れない。そんな雰囲気を漂わせる画面であった...。

ドローイングを始めて一年と半年、人を乗せて飛べる飛行機を作らないといけないのに、プラモデルを作って喜んでいる自分が見えるようになってきた。 アーチストとして生きることや、制作することは、どういうことなのか、ヒントをいただきたくて個展に足を運んだ。

神園さんは『遠景』へのコメントに「自分の伝えたい思いやこれまでの人生の辿ってきた長い物語を語るには10メ−ターは必要」と書いている。 なるほど...。
ぼくは自分の作品に対して、こういう向き合い方をしたことは、まだない。 作品に対峙するスタンスはいろいろとあってもいいことは承知しているが、この言葉はとても参考になった。来年の活動につながればなあと思っている。


神園宏彰氏website
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by ksksk312 | 2006-12-27 15:04 | 読書美術音楽、etc

めっぽう面白い。

問題です。
「途轍もなく」と「途方もなく」。違いを述べよ。

読書をしていたら、このふたつが対句のように使われている文章に出くわした。
わざわざ対句にするくらいだから、本来は微妙に使い方が違うのだろう。広辞苑にあたったけれども、これがよくわからない。 轍はわだちのことであり、方は方角なのはわかったが...どう使い分ければいい? 言葉ってむずかしいな。

で、その本なのだが、米原万里さんの『オリガ・モリソヴナの反語法』という小説である。 ずいぶん話題になった作品ではあったけど、やはり期待どおり...おもしろかった!

ロシア語の翻訳で糊口を凌ぐ日本人女性志摩は、 1960年代、チェコのプラハ・ソビエト学校で出会った舞踏教師オリガ・モリソヴナのことが忘れられない。 グレタ・ガルボのようなオールド・ファッションに身を包んだ老婆は、当時すでに80は越えていたはずなのに、バレエを踊らせると天才的、 しかしながら指導はきびしく辛辣(題名の反語法とは、日本でいうところのほめ殺し)、言葉遣いも下品の極致、 あまりの個性の強さ故だれもが一目置く人物だった。志摩はオリガ・モリソヴナの強烈な印象が忘れられず、 ソビエト崩壊後のモスクワで生い立ちを調べはじめる。

スターリン政権下の大粛清がどんなもんか、教科書やテレビの映像での知識はあったが、これほどのものだったとは...。 オリガ・モリソヴナの過去が繙かれるにつれ、過酷な運命に翻弄される女性たちの生き様に言葉を失ってしまう。
フランクルの『夜と霧』ではないが、人間はなにをもってして生きのび得るのか、 なぜに人間はこれほどの極限状態でも生きたいという希望が持てるのか、辛辣な問いが散弾のように投げかけられる。

なんとオリガ・モリソヴナは、プラハのソビエト学校に実在した人物なのだという。 米原さんは彼女の生い立ちを調べてノンフィクションを書く構想を持っていた。 しかし資料がどうしても集まらず、小説を書くことにしたのだという。

ノンフィクションにならないから、小説を書く。普通、もの書きならそういうことはしない。 資料が見つかるのを根気強く待つか、あきらめるか...。 しかし、著者があえてそれをしなかったのは、過去を作り話にしてでも、 たくましく生きのびる女性の「真実」を書きたいという衝動を抑えられなかったからだろう。 オリガ・モリソヴナの過去は作り話かも知れないが、あの時代にこういう人物がいても不思議ではないだろうし、 ラーゲリ(収容所)でのロシアの女性たちの生き様にはこれっぽっちの嘘はない。

この物語でいちばん好きなのは、ラーゲリから生還を果たしたオリガ・モリソヴナが、恋人だったチェコの外交官と再会するところ。 モスクワの広場、歓喜に身を焼かれそうになるも、醜く老いてしまった自分の姿に気づき、男の腕に飛び込むことを躊躇ってしまう。 その引き裂かれるような苦悩とともに、彼女がチェコへ移住する動機もきっきり描かれていて文句なし。頁をめくる指が震えてしまう。

結末に出てくる、志摩と旧友とのあわただしくも感動的な再会も素晴らしい。 ひょっとするとこの小説には、人間が経験するありとあらゆる種類の別離と再会が描かれているのではないか。

通勤の行き帰りの2時間、居眠りばかりしている。 時間がもったいないので骨太の読み物を探していたのだけれど、 たまたま文庫の新刊で出会ったのが『オリガ・モリソヴナの反語法』である。 4〜5日かけてのんびり時間がつぶせればと思ったのだが、寝る間も惜しんで1泊2日、睡眠時間を失ってしまいました。

願わくば、この小説が海外に紹介されて映画化されることを望む。
『ソフィーの選択』を越えるよ、きっと。

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by ksksk312 | 2006-11-29 22:57 | 読書美術音楽、etc

ハルキのカフカ

月曜日、朝日新聞電子版に、頬杖をついた初老の男性の写真を見つけた。
直感的に、プロ野球の監督かな?と思い脳味噌をスキャンしたが名前が浮かばない。 記事を読むと「プラハ、ルズイニェ空港で取材を受ける村上春樹氏」とある。そうか、(最近の)村上春樹ってこんな顔をしていたのか。

なんの根拠もないが、プロ野球の監督みたいだ、と思う。 あるいは登山家。若い頃はかなりの童顔だったが、最近は顔写真もあんまり出ないし、 安西水丸氏のイラストでも「にこにこ坊っちゃん」みたいな感じで描かれているので、精悍な顔つきにはおどろいた。 とても小説家には見えない。

「15才の少年がカフカを読みますか?」と地元記者が質問したという。
「わたし自身、15才でカフカを読んで大きな感銘を受けた」と答えている。

ふうむ。

「本は自分の内部の凍った海を打ち砕く斧でなければならない、カフカは友人への手紙のなかで書いている。 これこそまさに私が書きたい本なんです」とは、授賞式のスピーチで。 凍った海を打ち砕く斧。...斧か。そう、彼の作品は斧なんだよな。村上文学の真髄をみるような引用だと思った。

春樹さん、受賞おめでとう。
生涯ではじめての会見だったそうですが、日本ではやりますか?
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by ksksk312 | 2006-11-01 22:10 | 読書美術音楽、etc

B面

「外を歩くときは
A面の自分」

「家に居るときは
B面の自分」

谷郁雄さんが書いている。

A面をないがしろにしているわけではないけれど、
B面にばかり針を落としてきたような気がする。

どちらもかなり傷だらけだが、
とりあえずB面は針飛びはしないので。

そもそもこのレコードには溝がない。
自分でがりがりと刻んでいかなくてはならない。

しかも磁気テープとちがって、
いちど刻んだ溝は埋めることはできない。

どちらの曲も、
まだuntitled。

(あわててつけるつもりもない)

詩人によると、

ビートルズのシングル「レット・イット・ビー」、
(為すがままに)の。

B面は「レボリューション」、
(革命)だったそうだ。


 ++
詩。谷郁雄、写真。ホンマタカシ、
自分にふさわしい場所』(理論社)

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by ksksk312 | 2006-09-02 17:58 | 読書美術音楽、etc