両忘

カテゴリ:断片集( 27 )


半島の町でひとり
バスに乗っていました

停留所はありませんでした
運転手もいませんでした

ぼくは降りたくて
帰りたくて仕方が無いのに

ちび黒サンボのトラのように
バターになるまで走るらしい

夜は いつまでたっても夜
海は世界の果てまで(たぶん)海。

ひとりぼっちは
世界に君臨する神なのか

いつのまにか
免許もないのに運転手

うすうす夢だとわかりつつ
アア、コワい

からだは溶けてバターでした
時間も壊れて バターでした



涙をふきながら 窓の外
灰色の空

いつか自分に 終わりがくるこの世界

それでも 生きていること
しみじみ思っていいのかな

Mr.T/T

あなたは
"endless"の世界を この世に残しました

ぼくには描けるでしょうか

++
[PR]
by ksksk312 | 2010-10-18 00:13 | 断片集

バリシニコフの足

c0091055_22571582.jpg

先週の朝日新聞に掲載されていたルイ・ヴィトンの広告から。

足の主はミハイル・バリシニコフです。腰に両手をあててリラックスした姿で立っていて、右側には写真家のアニー・リーボリッツが坐っていました。とにかくこの足、すごいと思います。つま先がつぶれてしまって、肉厚がふつうの人間の倍くらいあるんじゃないだろうか。これはもう、獣の足です。

以前、自分のブログに書いた事があるけれど、バレエには(フラメンコやアイリッシュダンスのような)しっかりと床を踏みしめるという動作がほとんどありません。身体はつねに宙を目指して跳ねつづけなければいけないのだけど、跳ねる事を支えるのは「床」を蹴るという動作です。床から離反することを目指しつつも、床が無ければ成立しないバレエ。このエディプス的といっていい屈折した関係が、バリシニコフの「足」を作り出した、ということになるのでしょうか。

有名無名関係なく、プロフェッショナルな芸術家というものがいるとすれば、こういう創作の「痕跡」を肉体か、もしくはハートにかならず持っているのではないか。もちろん....これは芸術家に限らないです。プロフェッショナルとして多くの経験と知恵を積めば、身体かハートのどこかに獣のような痕跡が出来てしまう。痛いし、苦しいし、飽きる事もあるだろうけど、それをやらないと生きていけないという信念が人を前に進めるんだと思う。

とにかく、ぼくにはまだまだ....こんな獣の足はありません。
[PR]
by ksksk312 | 2010-03-14 22:58 | 断片集

ぶんぶん。

ネットでおもしろいことをしてる作家の方を見つけました。

久保田弘成展「泥匂崇拝」-アイルランド廻車報告-

久保田弘成ホームページ

いいですね。この方、実家が長野県で、どうも諏訪大社の御柱祭りと関わりがあるらしい。強烈な土着性が根っこにあって、そのエネルギーが壊されることなく、みごとに現代美術の文脈に変換されている。岡本太郎がもし60年代か70年代生まれの作家だったら、こういう作品をつくったんじゃないのか。


中沢新一の『アースダイバー』から。

最初のコンピューターが、一神教の世界でつくられたというのは、けっして偶然ではない。一神教の神様は、この宇宙をプログラマーのようにして創造した。ここに空を、あそこには土地を、そのむこうには海を配置して、そこに魚や鳥や陸上生物たちを適当な比率で生息させていくという、自分の頭の中にあった計画を、実行にうつしたのがこの神様であった。....その世界に生きてきた人間たちが神様のようになろうとしたときに、コンピューターを発明することだったのは、ちっとも不思議ではない。

ところが、....環太平洋を生きてきた人間たちは、世界の創造をそんなふうには考えてこなかった。プログラマーは世界を創造するのに手を汚さない。ところが私たちの世界では、世界を創造した神様も動物も、みんな自分の手を汚し、体中ずぶぬれになって、ようやくこの世界を作り上げたのだ。頭の中に描いた世界を現実化するのが、一神教のスマートなやり方だとすると、からだごと宇宙の底に潜っていき、そこでつかんでなにかとても大切なものを材料にして、粘土をこねるようにしてこの世界をつくるという、かっこうの悪いやり方を選んだのが、私たちの世界だった。

『アースダイバー』という著作そのものは、元ネタが週刊誌の連載ということもあっていまひとつ物足りなかったんだけど(地方に住んでると土地勘がないのでわかりにくい)、この序章の部分には共感しました。アニミズム的な神話を、こういう風に読み取るのは面白い。

同じ本から。アメリカン・インディアンの創世神話。

あるとき最初の女が二人の子供を生んだ。年長の息子の名はウィセケジャク(Wisakedjak)であった。女の夫は、妻が蛇と性交しているのを見て怒り、蛇を殺して妻の首を刎ねた。子供たちは逃げたが、女の尻が追いかけてきた。空へ逃げた夫のもとには、女の頭が追いかけてきた。女の尻は河岸で子供たちに追いついたが、鶴が彼らを持ち上げて河を飛び越えた。鶴は女の子の所に戻り、彼女(そのときはもう全身が戻っていた)を持ち上げて、河に落とした。女は水中でチョウザメに変身した。ウィセケジャクは弟を置いて母を殺すたびに出たが、弟は水蛇に殺されてしまった。ウィセケジャクは水蛇を殺そうとして激しく戦い、その結果世界を覆う洪水が生じた。ウィセケジャクは筏をつくり、アピ(潜水鳥)を派遣して、水底の泥をとってこさせた。この泥から新しい世界がつくられた。(『アルコギン・インディアンの神話』)

久保田さんがやっているのはこういうことではないのか。

ぼくもいいかげんドローイングから制作を再開しようと思っているのだけど、まずは自分の手で世界の泥(=原料)をひねくりまわす....という感覚を意識しようと思います。出来ることは限られているので、作品ががらりと変わることは無いだろう。でも、ほんの少しでも新しいことを。女の尻が飛び回るようなトリッキーさでもって、自分なりの美を見出すことができれば。。

一神教とアニミズム。新旧大陸と環太平洋。言葉と無意識。東京と佐世保。中心と周縁。コンピュータとカヌー。ミケランジェロとウングワレー。近代と土着。弥生と縄文。どっちが良くて、どっちが悪い、というものではないが、抑圧するものと抑圧されるものが、自分の外にはたくさんあるし、もちろん中にもある。コンフリクトを起こしながらも、行き来して、混じりあって、エネルギーあるものをつかめたらいいと思う。
[PR]
by ksksk312 | 2009-02-08 16:53 | 断片集

日本についての二、三の言葉。

『既にそこにあるもの』大竹伸朗

様々な街を訪れいつも思うのは、もはや特定の地域が自動的に「日本」と結びつくことなど無いといった感想だ。二十二の時、外国から帰ってきてからは、どこへ行っても東京式の街並みに右へならえの強引な力にうんざりしきっていて、「日本」をテーマに絵を依頼された時も正直な話非常に困ってしまった。「日本」など大嘘をつかない限り、少なくとも自分にとってのテーマになどなるはずがないと思い込んでいたからだ。

しかし日本をまわり始めて、絶句する光景があまりに多いことが気がついた。「日本」のことなどまったく無視した、歯止めの効かない爆走の果てに、過去の絶景はいつの間にか絶句景に変貌していたのだ。そこにもはや過去の尺度は無力であり、「日本」というものをどうしても見ようとするなら絶望のパワーダウンしかない。僕は今の日本の絶句風景を目の当たりにすると、思いとは裏腹にどうしてか反射的に心が笑ってしまい、その瞬間に絵心の回路が自動的に作動するのを感じる。


「途切れない記憶」中沢新一(『relax』2005.10)

いまから数千年前の東京の地形をあらわす「縄文地図」を手に、住みなれたこの首都を散歩する『アースダイバー』の仕事をしていて驚いた事は、めまぐるしく変貌をとげているように見える東京が、その地形のいたるところに、気の遠くなるほどの古い時代の記憶を、いまもそっくり保存しているという事実だった。....東京は巨大な武蔵野丘陵と多摩丘陵が、東京湾にむかって力づよく突き出してくる、その「岬」の部分に発達した都市だ。気候が温暖になって、氷河が解け出した縄文時代の中頃には、多摩丘陵がむしろ文化の中心地で、海に突き出た「岬」は宗教的に重要な意味を持つ場所だった。そのために、上野や芝や品川のような文字通りの「岬」ばかりではなく、フィヨルド状に入り込んだ内陸の小半島である青山などは、生と死が接触をおこなう整地だった。

....いまだって「ニッポンの風景」は、ちっとも均質になってなんかいないのだ。風景の奥に広がるトポロジーの中では、エネルギーの集中している場所や、それがのんびりとのびきっている場所や、急流のように走っている場所や、沼地を作っている場所などが、つぎつぎに連なって、大地の特異点をつくりだしている。


『三四郎』夏目漱石

「しかしこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので「亡びるね」といった。熊本でこんなことを口にす出せば、すぐになぐられる。

「東京より熊本は広い。日本より....」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。「日本より頭の中の方が広いでしょう」といった。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。

++

最近の読書から。気になる言葉です。

日本ということばを、九州に、または佐世保に(または「自分」に)置き換えて、頭の中を転がしてみます。新しい絵心の回路は、開くでしょうか。
[PR]
by ksksk312 | 2009-01-23 01:16 | 断片集

詩2編、その他。

c0091055_0215468.jpg

明けましておめでとうございます。

なかなかご紹介するタイミングがなかった、詩作品を公開いたします。
昨年の4月に西日本新聞に寄稿したものです。


「あ ふれる」

空に
土に


触れた

水蒸気と
春の綿毛に

あ 触れる

赤銅色の絵の具は
ゴッホにかえさなきゃ

こどもたちには
ビー玉かえさなきゃ

神の言葉は
焼却炉へ

西風が見たものは
灰色の雲へ

エイプリル
ぼくらの産声
あ ふれる

新・世界は
痛い 痛い

嬉遊曲

おみくじ
[PR]
by ksksk312 | 2009-01-09 00:23 | 断片集

夢を見た。

c0091055_20573978.jpg
c0091055_20575851.jpg
c0091055_20581539.jpg

或る画家が夢に出てきた。

ぼくはコラージュを制作していたが、画家はそれを塗りつぶして絵を描いてしまった。そのあと、大切なメッセージを言ったはずなんだが、目が覚めたとたん忘れてしまう。ただ、頭に残っているのは、無理矢理絵を描こうとするな、ということ。水が土に浸みこむように、絵が自然と自分に流れ込んで来るのを待て、それを待つことも絵を描くことだ、ということ。老子のいう道(タオ)だろうか。

自分の力だけで描こうとしても、小手先だけの小さなものになってしまう。自分は容れ物になって、道(タオ)が絵を描くのを黙ってみるだけでいい。人間は自然の一部に過ぎない。いつかは土に還る。身体を自然からレンタルしているだけだ。絵を描くことも、自然の為す技のひとつだろう。

と、ぼんやりした意識の中で考える。

作品には、ちっぽけな自分を超えて欲しいし、
もうひとつの自分の「肉体」でなければならないと思う。
.
[PR]
by ksksk312 | 2008-10-14 21:01 | 断片集

ドーナツ。

krispy kreame doughnuts
c0091055_21153460.jpg

c0091055_2116222.jpg


空(から)
[PR]
by ksksk312 | 2008-08-30 21:34 | 断片集

It's my painting.

c0091055_23331023.jpg

2005年の6月。無印良品の雑誌ノートに鉛筆で落書きをはじめた。
それを自分の中では絵の始まりということにしている。ヨーゼフ・ボイスやサイ・トゥオンブリを意識しながらくねくねとした線を描き、9月頃からブログにアップするようになった。

次の年の5月、ニューヨークからアメリカ人の詩人がポエトリーリーディングにやってきた。知人に誘われ、ギャラリーでの朗読を楽しみ、その場にいた地元の絵描きさんに初めて自分の作品を(ぶるぶるふるえながら)見せた。どやどやと集まってきた絵描きの方々がいうには「これは絵になる」「絵になるぞ」と....(みなさん興奮してました)。

でも、意味が分からなかったです。

「絵になる」って....これは絵じゃないのか。絵を描いたつもりだったのに、絵描きさんたちには、ぼくの描いたものは絵には見えなかったのか....。その後、別の知人から「そのまま100号に拡大して公募展に出すべきだ」と言われ、ようやく意味がわかった。あの場にいた絵描きさんたちには、ぼくの作品は絵の青写真にしか見えなかったのだろう。個展なり、公募展なりを知っている人はそこから逆算して制作をするから、スケッチブックのドローイングはタブローとはぜんぜん別物なのだ。そういうことが、その場で初めてわかった。

お金と時間があれば、美術の勉強をたっぷりしたい、と思う。とくに実技。それでもやはり、青写真を描いてそこから実物をおこすという作業はできないだろうと思う。不器用で、手間のかかることが苦手なので、仮に100号というサイズをあたえられても、青写真もなく闇雲に描き始めるだろう。0号だろうと100号だろうと、コラージュだろうとペインティングだろうと、自分がやりたいのはドローイングなんだと思う。自己から始まり、作品が自己を超えていくのを見るのが好きなのだ。

43才で絵を始めるなんて、やはり普通じゃない。まいにち描きつつ、自分は生い先長くないんじゃないのかとか、アール・ブリュットなのだろうかとか(これは違う。自分のやっていることをゲージュツと自覚しているから)、いろいろかんがえるけれど、かんがえてもしょうがない。どうしてもやりたくなってやりはじめ、もう止まらないのである。

isolationとpoor(....笑)と好奇心、それに非常識。....この4つがいまのぼくに絵を描かせている。でも、描きつづけて孤立と貧乏から抜け出せるという保証はどこにもない(みんな同じことをかんがえているだろうから)。ミクシイで知人のDくんがコメントしてくれたように、不随意な自己を発見するのが絵だと思う。自分のやりたいことにどこまで覚悟を決めて根性をいれられるか、それでこれからの人生が決まるのだ。

写真はB4サイズに描いたペインティングから。
ぼくにとって青写真ではない、paintingなのです。
[PR]
by ksksk312 | 2008-01-29 23:22 | 断片集

母の線、自分の線。

母。
c0091055_23413179.jpg

自分。
c0091055_2342541.jpg


DMなど身元がわかるものをゴミとして捨てる時(最近はとっておくことが多いけど....ゲージュツに使うので)、念のために宛名と住所はぬりつぶす。みなさんやっていらっしゃると思いますが、そんなものにも筆跡というものがちゃんとある(ということに、つい最近気がつきました)。

母は細いボールペンで、線をぐるぐる巻くようにして丹念に塗りつぶしていく。緻密である。ぼくは鉛筆か油性ペンで真横に線を走らせるのだが、てきとうなので宛名も住所もきちんと塗りつぶされていない。いい加減なのである。しかも....自分が引いた線より母が描いた線のほうにゲージュツを感じてしまうのですが、いかがでしょうか(....複雑)。

まあ、自分の声がどういう風に響いているのか生ではわからないのと同じで、自分の筆跡は客観的な痕跡には見えない、ということはあるだろう。自分で描いた線をゲージュツとして納得するのは、そういう意味ではむずかしい。でも、他人が描いた筆跡は(純粋な痕跡であるので)おもしろく見える。(それでも、母の線のほうがおもしろい)

親戚じゅうからDMの塗りつぶしを集めて家系図を作ったり、あるいは一定の地域からかき集めて構成したり、それだけで作品が出来るのではないか。無名性と、筆跡が醸し出す個の痕跡が矛盾無く立ち現れて、おもしろいかも。いつかやろう。
[PR]
by ksksk312 | 2007-10-24 23:43 | 断片集

詩2篇。

c0091055_8495216.jpg


More
[PR]
by ksksk312 | 2007-08-17 08:52 | 断片集