両忘

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小日記

わが町に、ドナルド・レーガンという米海軍の原子力空母が寄港している。
最新鋭だそうだ。ということは、世界最強の空母なのかな。ここからも停泊中の空母は見えるのだけど、さすがにでかい。 或る朝突然、湾のど真ん中に巨大な埋め立て地が出現した、という感じ。おもしろいのは、艦の向きが時間帯によってかなり変化すること。 ひょっとすると、錨を中心にぐるぐる回っているのかも知れない...まさか。けれど、わがS市の港はそれほど広いのです。

アマゾンから「kskskさんへのお薦め商品」なるダイレクトメールが届いた。
江原某の『苦難の乗り越え方』、フランクルの『それでも人生にイエスと言おう』等々...。あまりにベタなので、笑ってしまう。

ですけど、アマゾンくん。あなたの見立ては間違っていない。 いま、図書館でピックアップしたヴィクトール・フランクルの著作を読んでいる最中でしたから。

質問者「教授、陳腐な問いのようですが...質問させてください。人間は、幸福になるために生きるのですか」

フランクル「私は、人間はほんらい幸福を求めるものだという考え方に断固として反対します。人間が欲しているのは、幸福になる理由です。 理由がありさえするなら、幸福は向うからやって来ます。ところが、幸福になる理由を求めずに、幸福そのものを求めるなら、幸福になれません。 幸福は遠ざかっていきます」(『宿命を超えて、自己を超えて』)

ふむふむ。

フランクル教授のいう幸福になる理由というのは、シゴトとか、家族とか恋愛とか、具体的で有意な行動(意味)の対象を指している。 行動を通して、結果ついてくるのが幸福だというわけだ。幸福とは、あらかじめイメージ膨らませて見当をつけるものではない。 行動を通して発見されるべきものなのだ。たとえそれが方便だとしても...。

自分にとって、リアルな幸福ってなんだろう。

小さな事でいいから、ひとつひとつ行動を積み重ねていくしかないようだ。 意志を持ち、実践する自由が人間にはあるんだと、アウシュビッツで「充実した日々」を送った教授は言う。 自由とは、不自由のなかから選択されるものだ。ひとつひとつ踏みしめていくしかない。 人類すべてがそうしてきたように、自分もそうするしかない。やれやれ...でもわくわくする。

ドナルド・レーガンが、暗闇の港の真ん中でぼんやりと明りを灯している。

艦載機は核兵器も搭載できるとのこと。戦闘能力いっぱいで攻撃を仕掛ければ、この九州だってひとたまりもない。 たったひとつの艦船で...恐ろしい。
それでも、こいつには二酸化炭素排出や森林伐採、海面上昇を抑止する力はない。 中東の自爆テロを止めさせる力もない。パワーとはなんぞや、て思う。

毎日ほんとに暖かいので(東京方面は寒いようですが)、地球はマジでやばいのかも知れない。 人類が滅びたら、来世もなくなってしまいますね、江原さん。「魂の学校」は閉校の危機ですか?
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by ksksk312 | 2007-02-28 22:24 | 或る日

untitled

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鉛筆、クレパス、水彩、アクリル、コラージュ、紙(40X34cm)

detail
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by ksksk312 | 2007-02-26 13:20 | on paper '07

i was born.

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鉛筆、クレパス、水彩、アクリル、コラージュ、紙(33×26cm)

detail
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by ksksk312 | 2007-02-24 15:59 | on paper '07

春節の夜に。

日曜日は春節。旧暦のお正月。
月の満ち欠けを1ヶ月とする、太陰暦でいうところの新年は今日である。

太陽暦と太陰暦の違いはなにか。

いろいろとあるけれど、まず、太陽暦はカレンダーなど作られた記号によってしか把握出来ないが、太陰暦は月の満ち欠けや、 海の干潮などで体感することが可能だということ。われわれは太陽暦をもとに生活を作っているが、実はあまり必然性はなくて、 太陰暦より便利だから使っているに過ぎない(ような気がする)。けれど太陰暦(月のリズム)は、生き物の生理と深く関わっている。 女性の生理周期は月の満ち欠けのリズムとほぼ一致するし、ウミガメの産卵、樹木の水分の過多も、月と無関係ではない。

太陽暦は人間のためだけの暦だが、太陰暦は地球上のあらゆる生き物のための暦なのではないか。 すべての生き物のための新年が、今日の春節といえる。

というわけで、静かに厳かに「新年」を迎えたかったのだけど。。
昨夜は散々でした。

まず、先月から調子が悪かった扁桃腺が、ふとんにもぐり込んだ途端に一気に悪化。痛みがひどく、喉に触れただけで腫れているのわかる。 声も出ない。なかなか寝付けずいらいらしていると、ナナが突然吠えはじめる。 しかも、ネコや迷い犬を威嚇するときの吠え方とは違う。ひいひいと子犬のような声を出し、飼い主が出てこないと、 一時間でも吠えつづけるパターンだ。

しょうがないので外に出て愛撫してあげるが、満足しない。空き地に放しても駄目。トイレをさせても駄目。おやつをあげても駄目。 ...こんなことは珍しい。 結局、早朝5時過ぎまでえんえんと吠えつづけ、ぼくも微熱が出る始末。育児の大変さがほんの少しはわかった?

まったく、この体調不良はいったい何なのだろう。

トランスパーソナル心理学ではないが、愛犬の(原因不明の)夜鳴きと声のでない自分。 無意識の世界からメッセージみたいなものがあるようなないような...。

いや、たぶんあるので、いろいろ考えはじめている。 いまは充電期間なのだろうか。無理に声を出しても喉を潰すだけのようだが、どうだろう。それともぜんぜん別か。...とにかく、一年は始まったばかり。 このまま喉がつぶれたまま一年が過ぎるわけがない。転機があると信じて、明日を憂う事なかれ。

新年、明けましておめでとう!
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by ksksk312 | 2007-02-20 22:46 | 或る日

あいたた。

月曜日。
作品と展示物の搬出のために長崎へ。

今年に入ってから5度目の長崎。佐世保から遊びに行くときはほとんど福岡なので、長崎へいくのは年に2〜3回。 1ヶ月で2年分くらい訪問したのかな?

JRで長崎駅に着いて、まず駅の旅行センターへ行く。
...あった。

太宰府の九州国立博物館で開催中の「若冲と江戸絵画展」のチラシ。 若仲の色づかいがあまりに見事で、チラシを短冊状に切ってコラージュにしようと目論んでいる。 佐世保駅にはまったく置いてなかったので、しめしめ。周囲を気にしつつ10枚...。

五島町にある中古CD屋(クラシックが充実している)をのぞいて、そのまま大波止から県美術館まで歩く。 先週の日曜日もぶらぶら歩いたコースだけれど、 おなじ場所を歩いているという感覚がない。 光と風、潮の満ち具合がまったく違うので、波動というか、自然から感じる息づかいが違うのだ。 とくに、満潮で湾からあふれ出しそうな海水は、それだけでエネルギーのかたまりだ。圧倒的な水の量感。 途方もない量の水の分子が、われもわれもと語りかけてきて、耳がパンクしそうになる...という感じ。こんな気分はひさしぶり。

月の美術館で作品と展示物をピックアップ。
両手がふさがるので、玄関先で電車賃(100円)をポケットの中に。 するとユズルさんから「志久さんはA型ですね〜、わはは」と的確な指摘が下る。恐れ入りました。 正確にいうと(母がO型なので)A0なのだけれど。

ふたたび謎の中国青年と化し、新地の中華街を闊歩。背中にザック、両手に無印とユニクロの紙袋。 搬入のときよりも諸般の事情で荷物が増えたので、こたえました。駅までたどりつけばなんとかなるだろうと思っていたのですが、筋肉痛です。 あいたた。駅の旅行センターに寄って、さらに若冲のチラシを10枚...ゲット。帰路につく。

個展が終わり一週間。

礼状を制作したり、いただいたメールに返事を書いたり、たまりにたまった未完成の作品に筆を入れつつ、まだまだ気忙しい日々が続いています。 おどろくのは、一週間もの時間が経過しているのに、まだまだ発見や気づきに恵まれていること。 今回の個展がじぶんにとっていかに貴重なものだったか...。

もう引き返せない。ポイント・オブ・ノーリターンを通過してしまったような気がするのです。あいたた。
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by ksksk312 | 2007-02-16 11:08 | 或る日

カルロ・マリア・ジュリーニ頌

月曜日、佐世保に帰る前。
自分へのご褒美というわけではないけれど、CDを一枚買うことにした。

欲しかったのはベートーヴェンのチェロソナタ。 しかし意中の演奏家のディスクがなかったので予定変更、ひさびさにカルロ・マリア・ジュリーニのディスクを買う。 シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレート」。オケはシカゴ交響楽団である。

ジュリーニは、70年代半ばに、シカゴ響とマーラーやブルックナーなど、大作曲家の第9交響曲ばかりをレコーディングしていた時期がある。 どれもが大変な名盤で、クラシックの愛好家なら、どれか一枚は持っているのではないだろうか。

カルロ・マリア・ジュリーニは、本物のカンタービレを聴かせてくれる、20世紀最後の指揮者だった。 ということは21世紀の現在、もはや本物のカンタービレはナマでは聴けない、ということになる。

とにかく、ジュリーニはオーケストラを美しく歌わせる。弦も、木管も金管も、ティンパニだって歌わせてみせる。 しかもそれぞれの歌がばらばらにならず、すべての楽器がみごとに溶けあって、芳醇なワインのようなサウンドになるのがすごい。 たとえばそれは、ドヴォルザークの新世界交響曲のような、有名すぎて通俗といってもいいような曲を聴くとよくわかる。 中学校の音楽の時間、だれもが聴かされた第2楽章。ほとんど歌謡曲なのに....絶品なのである。 ジュリーニが指揮をすれば、日本国国歌だって、プッチーニのアリアみたいになるのではないか。

それはこのシューベルトでも徹底している。
いやはや...泣きたいほど美しいのだ。

「ザ・グレート」は、晩年に集中的に書かれたピアノソナタと同様、楽想の反復が多く、演奏時間が長い。 ゆえにほとんどの指揮者はテンポを揺らし、激しいアクセントをつけ、ダイナミックに曲を展開させる道を選ぶ(そうしないと退屈で持たない)。 しかしジュリーニは、あまりテンポを揺らさず、正確な歩みの中にじっくりと楽想を歌い上げるという演奏をしている。 男性的な曲なので激しいところは徹底して激しいが、どこを切っても、ジュリーニ流の高貴なカンタービレにあふれている。

とくにおどろかされるのが、第一楽章の第一主題。ホルンの序奏で始まり、弦、木管金管とメロディが歌いつがれた後、 音楽がピークに達した直後の「とぉ〜て、とぉ〜て、とぉ〜て、とぉ〜ててぇ」というあの部分である。 ほとんどの指揮者は、ここではテンポをどんどん上げ音楽をさらなるピークへ運ぼうとするのだが、ジュリーニはオケの力をふっと抜いて、 優雅なレガートで切り抜けていく。こんな不思議な演奏は聴いたことがない。

CDの解説(萩原秋彦氏)を読んで初めて知ったのだが、この部分にはフレージングやアーティキュレーションの指示がないのだという。 つまり、派手に駆け抜けようがレガートでさらりと歩こうが指揮者の自由というわけ。 ジュリーニはスコアの指示を無視して演奏していたわけではない。いままでの指揮者が、慣例にしたがって演奏してきただけなのだ。

一見するとそのアプローチは、あたかもジェット機が離陸の真っ最中にエンジンのスロットルを緩めるような、無謀な行為のようにみえる。 成層圏に向かって一気に上昇していくべきなのに、鳥のように水面すれすれに飛行しようとしているのだ。 音楽は失速の危機に瀕するが、力を抜くことによって、パワフルなサウンドの陰に隠れていたシューベルトの「歌心」があとからあとからあふれ出る。

作曲家の意図から逸脱せずに、これだけ個性的な音楽を作り、しかもより作曲家の本質に迫るような演奏。 これを芸術といわずして何といおう。素晴らしいディスクに、いますっかりハマっている。

カルロ・マリア・ジュリーニ。
音楽の神(あるいは業界)に愛された名指揮者は数多いるけれど、オケの楽団員に心から愛された名指揮者はけっして多くない。 彼は数少ない例外だった。人間(楽団員)に愛された指揮者だけが、オーケストラを歌わせることが出来る。

こういう音楽家と、音楽家の生涯が、世界にはまだまだ足りない。

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by ksksk312 | 2007-02-11 01:32 | 読書美術音楽、etc

たぶん元気。

月曜日の夜。個展は無事に終了。
東京からやって来た初対面の友人を空港まで見送り、バスで佐世保に。

2週間、さすがに疲れただなあ。
しかし、その疲れの感覚がどうにも身体に馴染まない。

絵の活動というものが、自分の中でレジャーではなくなっている。
シゴトなのかも知れない。この疲れは、シゴトをしたあとの疲れだ。

家の玄関を開けたとたん、ナナがひいひいと鳴きはじめる。 よしよし。いつものように腹を撫でてやるが、おかしなことにあまり興奮した感じがない。 いつもなら舌を出しつつ顔にダイビングしてくるのに、コンクリートに寝そべり、だまって腹をさすられながらぼくをじっと見つめているのだ。 な〜んか様子が変だぞ〜...とでもいいたげな目。ただただ、じっと見つめている。

おとなしいので散歩は省略してよかろうと引き上げるが、甘かった。月の光を浴びながらリードにつないで夜にくり出す。 月明かりに照らされて散歩をしていると、疲れが吹き飛ぶ。

ナナがおとなしくなり、居間に戻ってとんかつを喰っていると、母が「YS郎からまた葉書来た〜」と持って来た。をいをい4枚目の年賀状かぁ?

「立春をまもなくむかえようとしておりますが、いかがお過ごしでしょうか。 さて、おじいちゃんも、おばあちゃんも、お兄ちゃんもお元気ですか。ぼくは元気です。ななちゃんは、たぶん元気でしょう」

うんうん。元気だよ。
ナナもぼくも、(たぶんじゃなくて)ちゃんと元気だ。
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by ksksk312 | 2007-02-08 23:36 | 或る日

個展、終了しました。

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「志久洸介個展 詩人が描く抽象画」は無事に終了いたしました。

ご来場くださった方、
遠方よりメッセージ、励ましをくださった方、
ありがとうございました。

今回の個展レポはこちら。

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by ksksk312 | 2007-02-08 23:34 | お知らせ、個展など

作品主義。

個展。
レポもほとんど書けぬまま、残すところ来週月曜日までとなりました。

書きたいこと、書かねばならないこと。ゴッホが色の配分を研究するのに使った毛玉。まさにそんな風に、いろんな出会いの糸(色)がからみあって、不思議なモザイクになっている。 書いて出会いの糸をほぐすより、このままほったらかしにして熟成するのを待ったほうがいいような気もしたり。

今回の個展でおどろいたのは、作者が(自分の)作品からいろんなトレジャー(宝物)をもらっているのを実感できたこと。 作者の自己表現としての作品があり、他者がそれを評価する...というカルマから一歩抜け出したのを感じます。 作品というもの(存在)は、すごいものです。作り手も見てくださる方も、作品の前ではみんな平等です。

土曜日、日曜日。
会場でお待ちしております。
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by ksksk312 | 2007-02-02 22:07 | お知らせ、個展など