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両忘

ぶんぶん。

ネットでおもしろいことをしてる作家の方を見つけました。

久保田弘成展「泥匂崇拝」-アイルランド廻車報告-

久保田弘成ホームページ

いいですね。この方、実家が長野県で、どうも諏訪大社の御柱祭りと関わりがあるらしい。強烈な土着性が根っこにあって、そのエネルギーが壊されることなく、みごとに現代美術の文脈に変換されている。岡本太郎がもし60年代か70年代生まれの作家だったら、こういう作品をつくったんじゃないのか。


中沢新一の『アースダイバー』から。

最初のコンピューターが、一神教の世界でつくられたというのは、けっして偶然ではない。一神教の神様は、この宇宙をプログラマーのようにして創造した。ここに空を、あそこには土地を、そのむこうには海を配置して、そこに魚や鳥や陸上生物たちを適当な比率で生息させていくという、自分の頭の中にあった計画を、実行にうつしたのがこの神様であった。....その世界に生きてきた人間たちが神様のようになろうとしたときに、コンピューターを発明することだったのは、ちっとも不思議ではない。

ところが、....環太平洋を生きてきた人間たちは、世界の創造をそんなふうには考えてこなかった。プログラマーは世界を創造するのに手を汚さない。ところが私たちの世界では、世界を創造した神様も動物も、みんな自分の手を汚し、体中ずぶぬれになって、ようやくこの世界を作り上げたのだ。頭の中に描いた世界を現実化するのが、一神教のスマートなやり方だとすると、からだごと宇宙の底に潜っていき、そこでつかんでなにかとても大切なものを材料にして、粘土をこねるようにしてこの世界をつくるという、かっこうの悪いやり方を選んだのが、私たちの世界だった。

『アースダイバー』という著作そのものは、元ネタが週刊誌の連載ということもあっていまひとつ物足りなかったんだけど(地方に住んでると土地勘がないのでわかりにくい)、この序章の部分には共感しました。アニミズム的な神話を、こういう風に読み取るのは面白い。

同じ本から。アメリカン・インディアンの創世神話。

あるとき最初の女が二人の子供を生んだ。年長の息子の名はウィセケジャク(Wisakedjak)であった。女の夫は、妻が蛇と性交しているのを見て怒り、蛇を殺して妻の首を刎ねた。子供たちは逃げたが、女の尻が追いかけてきた。空へ逃げた夫のもとには、女の頭が追いかけてきた。女の尻は河岸で子供たちに追いついたが、鶴が彼らを持ち上げて河を飛び越えた。鶴は女の子の所に戻り、彼女(そのときはもう全身が戻っていた)を持ち上げて、河に落とした。女は水中でチョウザメに変身した。ウィセケジャクは弟を置いて母を殺すたびに出たが、弟は水蛇に殺されてしまった。ウィセケジャクは水蛇を殺そうとして激しく戦い、その結果世界を覆う洪水が生じた。ウィセケジャクは筏をつくり、アピ(潜水鳥)を派遣して、水底の泥をとってこさせた。この泥から新しい世界がつくられた。(『アルコギン・インディアンの神話』)

久保田さんがやっているのはこういうことではないのか。

ぼくもいいかげんドローイングから制作を再開しようと思っているのだけど、まずは自分の手で世界の泥(=原料)をひねくりまわす....という感覚を意識しようと思います。出来ることは限られているので、作品ががらりと変わることは無いだろう。でも、ほんの少しでも新しいことを。女の尻が飛び回るようなトリッキーさでもって、自分なりの美を見出すことができれば。。

一神教とアニミズム。新旧大陸と環太平洋。言葉と無意識。東京と佐世保。中心と周縁。コンピュータとカヌー。ミケランジェロとウングワレー。近代と土着。弥生と縄文。どっちが良くて、どっちが悪い、というものではないが、抑圧するものと抑圧されるものが、自分の外にはたくさんあるし、もちろん中にもある。コンフリクトを起こしながらも、行き来して、混じりあって、エネルギーあるものをつかめたらいいと思う。
by ksksk312 | 2009-02-08 16:53 | 断片集